なぜ我々は保守的なのか

ずいぶんと独断的なタイトルですが、
あながち間違ってもいないのかな、と思います。
「若い子にはもっと挑戦してほしい」と言われるということは、
挑戦が足りてないということですし、挑戦が足りてないということは、
つまり保守的だ、ということになるでしょう。
もっとも、おっさん側の世代だってそう挑戦的ではないはずで、
もし彼らが挑戦的ならば、日本はもっとスピーディーでしょう。
彼らも、若いころは挑戦的だったのかもしれませんが。

そう考えると、我々若い世代は、「若い時代は保守的だが、
年とってからむしろ挑戦的になる」というタイプの進化をたどるのかもしれません。
そうだとしたら、結構これから20年後とかの日本が楽しみです。

あと、やっぱり時代によって、挑戦的な方がよい時代と、
保守的な方がよい時代というのはあると思うので、
あながち「挑戦=善」「保守=愚」というわけではありません。

ただ、今の時代は挑戦をひかえるべき時代ではない、という風にも
思うんですけれどね。むしろ保守的だと少しやばい時代ではないかと。

もちろん、ある世代の中にも保守的な人・挑戦的な人はいて、
それらがさまざまなグラデーションになっているとは思うんですが。

で、そうそうそう、なぜ「挑戦」がひかえられるか、ということで、
今日ひとつ思いついたのは、単純に「円高ドル安」であるということ。

「円高ドル安」というのは比喩として使っていて、
技術革新によって、「ある種のコミュニケーション」はものすごくやりやすくなった。
しかし、「ある種のコミュニケーション」にかかるコストはまったく変わっていない。
ということを言おうとしています。

「ある種のコミュニケーション」が何をさすのかは、
たぶん個々人で思いつくものがそれぞれあると思いますが、
自分が当てはまると思ったものは、
「連絡」はしやすくなったが、「説得」は依然として難しいままである、ということです。
インターネットによってコミュニケーション全体が高速化したように見えますが、
インターネットで担当できない部分のコミュニケーションについては、
やっぱり昔と同じように地道な作業が必要なわけで、
その労力というのは相対的に見れば高くなってる。

そして、そこの労力っていうのはおそらく変わることがなくて、
これからどんどんその労力は高いものになっていくんだろう、と思います。
その労力自体に意味があるから、技術進歩に関わりなく、ほぼ一定なのではないかと。

で、「挑戦」の規模にもいろいろありますが、
社会に対する挑戦というのはどれもコミュニケーションを要し、
どれも「説得」を要するものなので、そういったものの難しさってのは、
あんまり今と昔で変わらないんだろうなあ、と思います。

ただ、たとえば連絡を密にとることで説得の手間がはぶける、
というようなことは、あるかもしれません。

で、たぶん我々は「保守的」になったのではなく(最初と言ってること違いますが)、
「計算高く」なったのだと思います。これは前も言いましたが。
その計算高さからすると、わざわざ労力をはらって、直接的コミュニケーションをとるよりは、
ふつうにネット上でそこそこ楽しんだらいいじゃないか、という感じなんでしょうね。
無料のものがどんどん増えてくることで、有料のものの価値が実質的に高騰していく。
というとなんかあんまり目新しくない結論のようにも思えてきましたが、
我々が「保守的である」「臆病である」と呼ばれるようなことがあれば、
どうもこのへんに原因があるのではないか、と思います。

で、もしその「保守性」を変えたいと思ったときにヒントになるのが、
「説得の難しさは結局昔から変わっていない」ということだと思います。
つまり、難しくなったんじゃない、昔と一緒である、ということ。
そこから考えると、何かわかってくるんじゃないかという。
予感がしています。予感だけですが。

たとえば、まあおっさんと仲良くなるとか。

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