哲学の限界はどこだろう

「原理的解決ができないパターン」というのが、あるんじゃないのか。

たとえば、天気予報は、どれだけ技術が進んでも、
「何%です」ということしか言えない。
「この状況でこうなったら100%雨です」ということは、
まさに雨が降る直前しかわからなくて、これと同様に、
論理的に完結した状況というのは、なかなかないんじゃないか。

そういう場合は、とりあえず「両方の準備をしておく」というのが
正しい判断になるわけです。

あと、たとえば昼飯にうどんかラーメンのどっちを食べるのが正しいかとか、
その人の好みや選択による問題も原理的に解決はできない。
食べてみたあとで「あー、ラーメンにしとけばよかった」
「あー、ラーメンはラーメンでもあっさり系のやつにしとけばよかった」とか、
後になってしか判断できないことがらというのはいっぱいあるので、
そういうものを哲学で解決しようとするとおかしくなる。

話があまりにも比喩的なのでわかりにくいかもしれませんし、
逆にわかってもらえてるような気もするんですが、
要は、「考えに考えても答えが出ない種類の問題(≒選択)がある」、
ということですね。
そういう問題に対して、「どうやらこっちを選んだほうがよさそうだ」みたいな、
天気予報的な予想を立てることは、思考によっても可能となりますが、
それ以上のことは無理なわけです。つねに思考と予想外の答えが出る可能性はある。
とても当たり前なんですが、頭でっかちな人間は、
ついそこのとこを忘れてしまいがちなので。

「原理的な解決」というのは、要は哲学的な解決のことをさしていて、
哲学的思考を深めていけばいずれ解決にたどりつく、という考え方が、
そのベースにはあります。
「考えればわかるだろう」、「考えれば正解にたどりつくだろう」という、
学校的思考がしみついています。それも大事なのですが。

しかし、たとえば問題が起こるたびに、その状況がまったく異なっているという場合、
法則性が立てられません。
法則性の立てられないところに関しては、
論理はあまりにも無力です。
世の中の問題が全部法則性が無いというわけではないんですが、
でもたぶん、ひとりの人間に起こりうる問題というのは、
まるでパターンが違った問題ばっかりのように思います。
そのような状況で、果たして思考にはどれだけのことができるのか、
その限界をわかっておかないとあかんなぁと。

「決断力がない」というのは、だいたい「思考を特権化している」ということの
裏返しだったりしますので、なぜ自分が思考(あるいは感性)を特権化しているのか、
そして果たしてそれでよいのか、ということを考えてみると、
「決断は決断しないといけない」という考え方になれるのではないかと。
自分の決断力がにぶっているため、このような文章を書いてみました。

ちなみに、書いたあとでタイトルを「哲学の限界はどこだろう」としましたが、
「考え方についての考え」が哲学であり、
「現実についての考察」は、何か現実に基づいたデータをもってこないかぎりは
空理空論になってしまうと思います。そういうものはなるだけ科学的であるべきです。
哲学は何もデータを拾ってこなくてもできるから自由であり、
また、そこに限界があるといってもよいでしょう。

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