なぜ自分の欲しいものがわからないのか

就職活動をする学生がもっとも自問自答することといえば、
「いったい自分は何がやりたいのか?」ということでしょう。
それがはっきり言えなければ会社には入れてもらえないし、
入ったとしても幸せに働けるかどうかがわかりません。

しかし、この「いったい自分は何を欲しているのか」という問いは
予想以上に難しくて、答えが見つからないまま面接にのぞんだり、
あるいは適当にみつくろった答えを言ったりする人も多いことでしょう。
ちなみに私は前者です。面接前夜になってもちょっとまだわかりません。

なぜこの問いがこんなに難しいのか、というと、
それはおそらく「自己の複数性」にあると思います。
言いかえれば、「自分の考えはその時々でころころ変わる」ということ。
このことを自覚していればいるほど、「自分のやりたいこと」を
うっかり口にしてしまうことにためらいが生じます。
言った次の瞬間にはそれがウソになっているかもしれないし、
また、今の自分の表層的な意識ではその答えが「真」だけど、
意識の深層では、その答えは「偽」なのかもしれない。
家に帰ったあとで、「あの時はこう答えたけど、本当に俺はそれがやりたいのか?」
と考えると、どうもウソをついてしまったような気になる。

おお、はからずも、エイプリルフールらしく「ウソ」という話題につながってる。
この場合のウソとは、ウソであることを自覚したウソではなく、
ウソであることに自分自身が気づいていないウソです。
多重人格的なウソです。それは何もヤバいことではなくて、
ふつうの人間にとってよくあることだと思います。

たとえば「本当の自分とは」という議論がありますが、
ひとりでいるときの自分が本当の自分なのか、
友達といるときの自分が本当の自分なのか、というのは、
どっちに決めても居心地の悪さが残る問題です。
どちらも同じ自分であり、それと同時に、違った自分である。

「人間は現象である」という考え方があってですね。
すべての人があらゆる性質(優しい・冷酷・怒りっぽい・人懐っこいetc)を
そなえており、環境によってその性質のいずれかが引き出される。
同じような環境にいれば、同じような性質を引き出される機会が多く、
ゆえに、その性質があたかもその人の本質であるように思われるが、
実はそうではないのだ、という考え方です。

そういう見地から考えれば、人間はあることについて
「それをしたい」と「それをしたくない」の両方をつねに持ち合わせており、
どちらに決定しても、ある程度満足はできるし、ある程度不満も残る、
ということになります。

この理屈と結論は私の生活実感ときわめて一致しているので、
私の人間観は割とこういったものなのですが、
もちろんそれ以外の人間観もおおいにありうるでしょう。

ただ、今の自分にとって最もリアリティがあるのは、
「人間は現象である」という考え方なので、それに乗っ取って話を進めます。

そのように、つねに矛盾した気持ちを抱えているのが人間ですから、
外部からの影響を受けて、「自分の欲しいもの」が生み出されます。
外部からの影響というのは、最も大きいのは広告ですが、
それ以外にも、まわりの人々の言葉や、教育などによってつくられます。
で、「つくられた」ものであるからといって、それを否定すべきだ、というわけでもない。
それも自分の一部になっていることは間違いないし、
そういったものをはぎ取られた人間は、動物でしょう。

今うっかり「外部」という表現を使ってしまいましたが、
「外部」とは一体なんなのか。どこまでを指すのか。
教育や広告、芸術や食事もその範疇に含めていくと、
どうやら「自分が生まれてから今に至るまでのすべての経験と知識」が
「外部」に当たるのではないか、といえそうです。

という風に考えていくと、
「自分の欲しいもの」が生み出される原因、根拠となるもののすべては、
その「外部」、つまり「過去」にあるのではないかと思います。
実はあまりにも当たり前なことを言っていますが、
「自分の欲しいもの」がわからなかったら、
「自分の過去」を探せ、ということです。
国語の問題と同様に、自分の過去を丹念に読み解いていけば、
その中に「自分の欲しいもの」のヒントは隠されているはずです。

ちなみに、私の場合、過去をよーく振り返ってみると、
「声が小さい」ということが驚くほど人生に影響を与えていると思いました。
「声が小さい」のルーツはなんなのか、というと、
たぶん身体的なものもあるんでしょうが、「他人に迷惑をかけたくない」
というとこにあるんでしょうかね。なんとなくそんな気はします。

で、私が望む「あるべき社会」っていうのも、
究極のところ「声が小さい人にやさしい社会」という一言で
すべて決着がつけられるような気がします。恐ろしいほどに。
読書好き、ネット賛美、パーカッション、マイナーなものへの志向、
哲学(とりわけ認識論)、平等を重んじる、ルールへの志向、
これ全部、「声が小さい」と関連づいています。
今気づいてびっくりした。あ~、そうだったのか。

すべてを単一の原因に帰してしまうことには、もちろん危険性もありますが、
「声が小さい」という軸が見えたことで、だいぶ何をやりたいかは見えましたね。
これはもちろん現時点でのやりたいことであって、
一生やりたいことではないかもしれません。
それに、そういう留保をつけておいた方が、柔軟性が保てますしね。

まあ、今日の結論としては、
「欲しいもの」がわからないときは、自分の内面に答えを探すのではなく、
過去を振り返ってみようぜ、ということです。
それは職業選択のようなビッグな場面でもそうですし、
今日の昼飯を何にしようか、という場面でも使えると思います。

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