読書について

最近ちょっと読書能力が低下しているようなところがあるので、
読書について考えてみたい。

本を読むスピード自体は低下していなくて、
前より少し速くなったぐらいかもしれない。
調子がいいときは1日1冊読むし、
毎週3冊~5冊ぐらい本を読めます。

本を選ぶ能力も、最近だんだん上昇してきて、
選んだ本はたいていがことごとくおもしろい。
たまにハズレというか、読みづらくて感心のないテーマの本を
なんとなく借りてしまうことはあるけれど、
そんなには多くない。たいていはピッタリの本を見つけ出せる。

それでも読書能力が落ちているなあと思うのは、
次の3点の理由による。

1.「自分は本当にちゃんと理解できているのか?」
2.「難しい本が読めなくなってきた」
3.「集中力がない」

1番目。
本の内容をちゃんとわかっているのかどうか。
「本を読み終える」ことが主な目的になっていて、
内容をきちんと咀嚼しきれていないうちに次のページに
行ってしまっているのではないかという危険性。

まあでも、これについては最近、いろいろな対処法が
見つかってきました。
たとえば、同じ本を2回読むこと。
だいたいの内容をつかんだ上でもう1回読めば、
筆者がどういう議論をふまえた上で結論に至ったのか、
という流れが確認できますし、その流れのなかで
ちょっとつまづくところがあれば、そこをもう一度よく読めばよい。
実際、最近読んだ本はもう1回読むようにしていて、
そうすると、議論の流れが頭の中でしっかり組み立てられます。

ただ、それでも内容把握が雑になっちゃう危険はやっぱりあって、
1回目の時点で雑にしか読んでいなかったら、
2回目なぞる時もやっぱり雑になってしまうんじゃないかという。

あと、さらにいえば、じっくりと考えて読まなかったら、
結局自分が理解しやすいとこだけ理解して終わってしまうのではないか、
という、もっと根源的な危険性もあります。
それを象徴するのが次の問題。

2番目。
「難しい本が読めなくなってきた」。

最近読んで挫折というか、読んでて「こら無理や」と思った本が
およそ3冊あります。

マーシャル・マクルーハン『グーテンベルグの銀河系』
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』
アーヴィング・ゴッフマン『儀礼としての相互行為』

いずれも古典、つっても1970年前後に書かれたもので、
いたって最近の本です。でも割と高い評価を受けていますし、
そのジャンルにおいてはもはや古典といってもいい。
ちなみに、ぞれぞれメディア論、消費社会論、社会学です。
最近の本でもちょくちょく言及されていることがあるので、
これは一度読んでおこうかなあと思い、読んでみたのですが、
まあ読めない。

ひとつは文体です。
もうひとつは内容。

文章というのは、
たぶん、文体・内容・順番で構成されるものだと思うのですが、
この「文体」と「内容」の時点でつまづいてしまう。
マクルーハンにいたっては順番もめちゃくちゃなので、
これを理解しようとするとけっこうな努力が必要になります。

で、そういう本を読むに当たって、
さも新書を読むかのように読んでしまうと、
まったく歯が立たないというか、まったく何も読みとれないまま終わります。
あるいは、自分がどっかで聞いたことのある内容しか読み取れません。
本を読むのは、もともと自分では思いつかないアイディアとか、
自分が知らなかった情報を知るためなので、これでは意味がない。

3番目。
「集中力がない」。
これはもう、読書にかぎらず、生活のあらゆるシーンにおいて、
集中力が無くなってきています。

エネルギーを1か所に集中させるっていうことに、
なんかもったいなさを感じてしまう時があるというか、
できれば自由をフル活用したいと思いがちで。
「○○する自由があるのに○○しない」っていうのを発見すると、
なんかもったいなく感じてしまって、つい○○をしてしまう状態。

たとえば、電車の中で本を読んでいても、
せっかくiPhoneがあるのだから、iPhoneでtwitterを見たり、
せっかくお茶を持ってきているので、お茶を飲んだりとか、
そういった「自由の成仏」のために、本に対する集中力が削がれる時が
多々ありまして。
iPhoneの電源切ったらいいじゃんというのはごもっともで、
実際ときどきは切るのですが、でもついてるとなんか見てしまうという、
そういう「テレビが常にくっついてきている状態」みたいになっています。

あと、そういった外からの要因がなくても、
読んでいる本がなかなか理解できない時、
本をぱらぱらとめくって「あと何ページあるんだろう」とかいうのは
見たりします。で、残りページがあんまりに多いとちょっとだるくなったり。

要するに、考えがあっちこっちに飛ぶということです。
で、それは自分が借りてくる本にも表れていて、
つい1週間前には「マクロ経済学を勉強するぞ!」と思っていたのが、
今はなんか社会学とか哲学とかそういう方面の本を借りてしまっている。
3日前に借りた本が、今の時点では「別に読みたくないなあ」と思っていたりする。
読んだら読んだでたぶん面白いはずなんですが。

そして、最終的に自分はたくさん読書をすることによって、
一体どこに行こうとしているのかが全く見えていないという問題もあります。
ゴールなき読書というと言いすぎですが、
どういう問題意識をもって読もうとしているのか、みたいなものが、
いまいち不明確です。問題意識もあることはあるけれど。

どちらかというと、「このアルバムジャケットかっこいいから聴いてみよう」
みたいな感覚で、試聴するように本を借りているような状態です。
おもしろかったら最後まで読むし、そうでもなかったら途中でやめる。

で、まあ、そういう浮足立った読み方なので、
必然的に「じっくり耳を傾ける」ような読み方はできんのです。
クラシックの交響曲のよさを、試聴だけで知ろうというのは馬鹿な話で、
1曲まるごと通して聴くには、腰を落ち着かせて聴いた方がいい。
にもかかわらず、私の読み方は、電車で乗り換えのたびに
iPodの一時停止を押しているような聴き方です。
文章は断片的に読まれることになり、
そういったバラバラなフレーズとして聴いてもおもしろいものだけが
耳に心地いい、ということになってしまいます。
そうなるとポップスしか読めなくなってくる。
ポップスというのは何も新書に限ったことではないですが、
最近の日本人が書いた、やさしい文章のものばかりを
必然的に好むようになってしまうということです。
ポップスが悪いとはまったく思っていないけれど、
古典が読めないのはけっこうなマイナスだと思う。

まあ、かといって、じっくり聴いたらクラシックがわかるかっていうと、
そういうことでもないですしね。知識は要ります。
つまり、難しい本を読む前には、
そのジャンルについて一通りのことが書かれた簡単な本を読んでないといけない。
というより、読んでいたほうが読みやすい。

なので、原書を読む前に、なるべく原書を解説した本を読むようにしているのですが、
でもそうすると、「原書読む意味ないじゃん」って思って、
結果原書がまじめに読めなくなっちゃう面もあるにはある。
音楽と違って、本は内容が分かれば要はそれでいいわけですから。

最近文章を書きなれていないので汚い文章になってしまいましたが、
今日はこのへんで失礼いたします。

広告

0 Responses to “読書について”



  1. コメントする

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中





%d人のブロガーが「いいね」をつけました。