パーソナルな民主主義

僕にとって谷垣さんというのは、
いわば解散おじさんみたいなもので、
解散さえしてくれたらとにかくなんでもいい、
ぐらいの政治的立場に見えている。
谷垣さんの頭の中にはビジョンがあるかもしれないけど、
外から見ると、ただの解散おじさんである。

谷垣さんは個人としては嫌いではない(なんとなく)。
ただ、自民党党首という立場にたったときの谷垣さんは
どうもおかしな風にみえる。

ってまあ、そんな具体的な話をするつもりではなく、
いつもどおり抽象論をやります。

解散っていうのはつまり、民意を問うことなんですよ。
国民は何をどうしたいのかを聞くことが、解散であり、選挙。

で、衆議院や参議院が4年や6年ごとに定期的に選挙を
もうけているのは、「4年もすればだいぶ民意は違うことになっている」
というのが理由として、まあ、あるわけです。
4年前と今で同じ気持ちということはあんまりないですから。

今度もし選挙が行われるとすれば、
「4年前みなさんは民主党がいいとおっしゃいましたが、
 実際政治やらせてみてどうですか!みなさん!」というのが
選挙テーマになってくる。

けど、果たして国民が民主党の業績を、
正しく評価できるのか?っていうと、おおいに疑問が残る。
そもそも我々は
「もし昨年自民党が政権を握っていたら、
 震災への対応はどうなっていただろうか?」
ということを知りえないのだから、
仮に「民主党の対策はダメダメだった」ということが
わかったとしても、じゃあ他に何を選べばいいのか、
という疑問が残る。
そこでなんとなく自民党を選ぶのは、雰囲気政治だし、
そういうものに国会が4年間拘束されるのもあほらしい。

ほかにも民主主義についてはいろいろなことが言われていて、
具体的な選挙の危険性については、
選挙の経済学』という本がまあ面白いのでそちらを参照してください。
この本の主張は、ぶっちゃけていうと、
「国民は愚かだし、とりわけ経済学について全然わかってない」
ということにつきます。
とても大胆な本。民主主義の根底をひっくり返します。

参考リンク:
ブログ「モジログ」より
経済に関して一般人が陥りやすい4つのバイアス
ブライアン・カプラン 『選挙の経済学 投票者はなぜ愚策を選ぶのか』

いっぽうでは、
『「多様な意見」はなぜ正しいのか』や
『「みんなの意見」は案外正しい』
といった本も出ているので、こちらも読んでみてもいいかと。

ただ、『選挙の経済学』では、このことについて
国民は「集団的バイアス」をかかえているから、
本来彼らにとって望ましい位置からズレざるをえない、
というように書いています。
たとえば、「みんなの意見」は案外正しいといっても、
その「みんな」が街宣車に乗ってる極右の人ばっかりだったら、
おのずと意見は偏ってくるだろう?という話。

つまるところ、民主主義というのは、
「その結果選ばれる政策の有効性」よりも
「政策決定のプロセスに納得できるかどうか」を大事にしているわけです。
たとえばヒットラーは戦後ドイツの経済危機を大幅に回復させたし
(『ヒットラーの経済政策』なんて本まで出ている)
高速道路(アウトバーン)の建設もはたしました。
日本の官僚が新幹線を建てたがるのは、
ヒットラーにあこがれているのかもしれません。
もしくは鉄ちゃんなのか。

「プロセスに納得できるなら、
 たとえ悪い政策が選ばれてもいい」
というと、大げさだ、と言われるかもしれませんが、
実際、民主主義がよい選択をできるかどうかは
かなり微妙なところがあるわけです。
だからといって、独裁がよい選択をできるかどうかもわからないので、
まだ納得できる民主主義にしておこう、てなことで民主主義に落ち着いている。

それはどうなのよ?

人類が集まって住むようになった時から政治はあったわけで、
何千年というレベルで政治の歴史が刻まれてきたのに、
なんで政治システムの選択肢はあんまり増えていないのか?
もうちょっと別の意思決定システムがあってもいいんじゃないか?

――――――――――――――――――――――――――――――

政治というものをもうちょっと緻密に考えてみますと、
「人々」「ルール」「意思決定」があります。
今風に言うと
「国民」「法」「国会」。
厳密にはここに「執行部隊」のようなものも入りますが、
とりあえずそれは無視するとして。

で、民主主義というのは、
「意思決定する人々」と「意思決定の影響を受ける人々」が
同じ人なわけです。

独裁とか、貴族政の場合、
「意思決定する人々」と「意思決定の影響を受ける人々」が
別々。
遠まわしにみれば独裁者も影響を受けるのですが、
まあでも実際のとこほとんど影響を受けません。

間接民主制は、この中間で、
「意思決定する人々」と「意思決定の影響を受ける人々」が
完全に同じではないけどある程度近い、
でも別といえば別、みたいな状況。
じっさい我々と政治家は同じ世界に住む人ではありませんし、
その行動様式や生活は我々とかなり異なっています。

民主主義がもし正当化されるとするなら、
それは単に
「意思決定する人々」と「意思決定の影響を受ける人々」
が同じだから、という理由によるもので、
つまり「自分で選んだのだから、自己責任でしょ」
という論理がその後ろには働いています。
また、民主主義には
「自分のことなんだから真剣に決めるはず」
という想定もいちおう働いています。

逆に、なぜ独裁や貴族政が不当かといえば、
「意思決定する人々」によって
「意思決定の影響を受ける人々」の運命が左右されるからです。
自分の行いのせいではないものの責任を、
自分がとらされるというのは、人間として不快だし不当なものですから。

(例:マリー・アントワネットが宝石を買いすぎたからといって、
   なんで俺たちが農地を開拓しなきゃいけないんだ?)

もし民主主義に不満をもつとすれば、
間接民主制がかぎりなく貴族政に近づいているからであり、
「自分たち以外のやつが自分の運命を決めている」と
感じるからでしょう。政治家が国民を牛耳っているというような。

そこに不満をもつんだとすれば、
なおさら独裁に行くべきではないと思うんですよ。
つまり、独裁によって一時的に「国民目線の政策」が
選択される可能性はあるけれども、それがどのくらい続くのかわからない。

それよりも、民主主義を民主主義にもどすというか、
「意思決定する人々=意思決定の影響を受ける人々」
にしないといけない。

――――――――――――――――――――――――――――――

「意思決定する人々=意思決定の影響を受ける人々」
と書いて、イメージするのは、
なんというかアンケート調査で政策を決めるような世界です。
もしくは常に投票を行うような世界。
1日1回投票。国民の義務として。
1日のうち、いつでもいいので、ネット上の国会にアクセスして、
ある政策について、YesかNoかを答える。
もちろん、なにも知識がないのに決めるのは危険だから、
それぞれの政策の横をクリックすると、
有識者のコメントや解説を見ることができる。
それをそこそこ参考にしながら、自分の希望もそえて、
1日10件ぐらいの政策について是非判断をくりかえす。
これを毎日やる。週6日でもいいけど。

マジで「意思決定する人々=意思決定の影響を受ける人々」
にしようと思うのなら、これぐらいの努力は
必要なんではないかと思うんです。
多少手間暇はかかりますが、
なにより国民が「自分の選択が国に影響を与えている」
と思うことができますし、その結果についても不満を持ちにくい。

そもそも、せっかくネットというものができて、
直接民主制がものすごくやりやすくなったんだから、
もう1回直接民主制に戻ってもいいと思う。
それがどのような結果を引き起こすかについては、
なんともいえないけど、でもすくなくとも「民主主義」の度合いは増す。
衆愚政治になるかならないかは分からない。
でもいちおう自分たちで決めてるんだから、
その結果には納得できるし、納得しなければならない。

少なくとも、試してみる価値はあるのではないか。
問題は、このシステムに移行することを、
「民主主義政治」がゆるさないことである。
まずこうなることはありえない。
憲法も変えないといけないし、
地方に住む老人の意見はどうするんだ、
みたいな反論がつぎつぎと出てくる。
政治システムもいっぺんに変わるので、
あらゆる利益団体がこぞってこれを防止する。
絶望的に不可能に近いと思う。

だから、もしこれが実現するとしたら、
それはシリアのような国のシステムが崩壊しようとしている国か、
カンボジアのようにネットインフラがすさまじく整っている国の
どちらかだと思う。

アメリカもネットインフラは整っているけれど、
あそこの国はいまだに選挙人制度という不合理な制度を残しているので、
こんなダイナミックな改革は不可能に近い。
国がでかいとやりづらいというのもあるし。

そういう意味では、なんとなくカンボジアに期待するんですよね。
人口も少ないし、永世中立国だし。
虐殺の記憶も新しいので、武力的行為はかなり抑制されると思う。
識字率はやや低いんですが、
スマートフォンやパソコンなら文章を読み上げることもできる。
なんら障害にはならない。おそらく。

ここまで書いたところで、
急に『一般意思2.0』という本を思い出した。
まだ読んでいないのでなんともいえませんが、
ネットでざっと概略を見た感じですと、
「民意を可視化」する、ということがキーワードになっているらしい。
割と今まで書いたことに似ているかも。
けっこう違うとこもありますが。

たとえば、僕がさっき書いたのは、
統治者と被統治者が「完全に一致」するケースです。
つまり、それはものすごい衆愚政治になる危険性もはらんでいる。
でもそれでもしょうがないっちゃしょうがないんじゃねえの?
というのが、僕の(投げやりな)主張です。

で、東浩紀さんが書いているのは、
そういった集合知を信頼するのではなくて、
「みんなの意見」(つまり、一般意思)を見えるようにしながら、
いままでの国会と併存させていくという形、らしい。

そっちのほうがまだリアリティはありますし、
とりわけカンボジアのような国なら割と実現できるんじゃないかと。
もちろん僕はカンボジアの実態をよく知らないのでイメージで語ってますが、
国会と併存しつつ一般意思の可視化は、ありそうだなあ。

現に僕は『選挙の経済学』を読んで、
民主主義ってヤバいんじゃないか、という風な意見を
率直に言えばもったので、「完全に一致」する政治は僕もヤバいと思います。
国民は自分のためになる政治をはたして選べるのか。

いやあでも、そういう、ネットが入り込んだ政治は、
見てみたい気がします。まんざらありえない話でもない。
日本の政治について語るのはあんまり面白くなさそうですが、
こういう政治の話はおもしろい。

『一般意思2.0』を読んでまた何か思いついたら書きます。
ではでは。

――――――――――――――――――――――――――――――

「BLOGOS」掲載、東浩紀さんのインタビュー。
これ読むだけでもわりと内容がわかる。
http://blogos.com/article/31477/

「JBPRESS」より。
『一気にネット先進国へ名乗りを挙げたカンボジア』
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35921

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