アダム・スミスは1ページ目からおもしろい

昨日ソクラテスの問題点に気づいてから、
ちょっとソクラテスを読む気がややなくなったので、
かわりにアリストテレスを読んでみていました。

が、思いのほか、アリストテレスがおもしろくない。
『ニコマコス倫理学』を読んでみようとしたのですが、
そもそも『ニコマコス倫理学』は学校での講義ノートらしく、
教授にもらうレジュメみたいに、要点しか書いてないんですね。
なので非常にわかりにくい。行間を読まねばならない。
文章的にもそんなに名文ではない。対話形式でもないし。

ということで、ちょっとプラトンブームが早くも収束しようとしていたんですが、
でもせっかく最近原書ブームが来ているので、別の本を読んでみようと。

そう思って、いわゆる「世界の名著」シリーズの棚をうろうろしてました。
古代ギリシア系は、いうてそんなに無いので、
次に来るとなると古代ローマ系の人々(キケロ、セネカなど)ですが、
これもちょっと読みにくそうな感じがする。

ただ、ちょっとおもしろいなと思ったのは、
キケロは哲学者であるよりも政治家であることを望んだそうです。
というか、本人は一度哲学者を目指したんだけど、
ついどうしても現実政治のほうに関心が行ってしまうらしい。
それはそもそも、自分の中に、哲学よりも実際的行動を重んじる考えが
あるからだ、みたいなことを、解説で書いてましたね。

このへんの、「理想主義」-「現実主義」という境目は、
もしかしたら「古代ギリシア」-「古代ローマ」に対比できるのかもしれません。
「古代ローマはアメリカである」というようなことを誰かが言っていましたが、
アメリカ的な現代は、逆に言うと古代ローマ的なのかもしれない。

なので、古代ローマを読むことも考えたんですが、
どうも気分が乗らなかったので、「名著」シリーズのほかのものを読む。

そこで手に取ったのが
『アダム・スミス』編と
『オーウェン サン・シモン フーリエ』編。

オーウェン、サン・シモン、フーリエというのは、三人セットでよく語られますが、
「空想的社会主義」の人々です。
あまりにセットで語られるので、昔は「サン・シモン・フーリエ」という人名だと思ってました。

で、昔のヒッピー運動とか、「ロハス」みたいなものって、
結局空想的社会主義につながっていくんじゃないかと思うし、
もしかしたらシェアハウス的な発想も、
ここらへんと共通するのが大きいのではないかと思います。

だとすれば、サン・シモンやフーリエは、いったいどこで間違えたのか。
あるいは彼らの理論は意外にも正しいのか。
そこを見極めることで、なんかこう今の世の中を見るのに、
意外に役立つんじゃないかと思うんですね。

あと、空想的社会主義を読んでからマルクスを読むと、
だいぶ理解がスムーズになるのではないか、という気もします。

で、けっこう文章も読みやすそうですし。
これはぜひ読みます。

問題は、もう一方の『アダム・スミス』編です。

これがもうめちゃくちゃおもしろい。
1ページ目からおもしろい。
文章もかなり読みやすい。無駄がない。
古典の文章ってけっこう無駄無駄無駄ァな要素が多いんですが、
アダム・スミスの文章には無駄ァがない。そこにしびれるあこがれる。

『国富論』の1ページ目にはどんな内容が書いてあるかというと、
まずこういう内容から始まります。

「国民が1年間に行う労働は、
 国民がその年に消費する生活必需品と、便益品のすべてを
 供給する本来的なみなもとであって、
 この必需品と便益品は、つねに、労働の直接の生産物であるか、
 またはその生産物で他の国民から購入したものである。」

これ、内容はあまりにも当たり前のことを言ってるんですが、
これを読んだとき「うわ、すげえ!」というか、
なんだろう、驚きがあった。

つまり、「われわれが消費しているものは全部、労働の産物です」ということ。
「労働なくしてモノなし」ということ。

これも、きわめて当たり前なんですが、だいぶ忘れてた。
なんかよくわからんシステムで世の中のモノというのはできてて、
なんかよくわからんけど我々はそれを買えるのだろうと思っていた。
けど、よく考えると、あらゆるものは誰かの労働の産物である。

「ああ~」という感じです。
お金が介在することでそのことが分からなくなっているけど、
よく考えるとモノはかならず労働から生み出される。

もちろん、すぐこういう反論は浮かびます。
たとえば、
勝手にできた自然景観とか、天然のお魚とか、
コンピュータの自動処理によって生まれるものは、
人間の労働で作られたものではないのでは?

たしかにそれもそうなんですが、
でもそれを人間が使えるようにするには、
やっぱり人間の労働が必要だ。
自然景観があっても、それを見に行くための電車や飛行機は必要だし、
お魚も獲らねばただ泳いでいるだけである。
コンピュータなんてまして、そもそも人間が作ったものだし。
(この考えを延長すると、
 自動で動くコンピュータや機械というのは、
 「自然を作ること」という風にも考えられる)

という意味で、やっぱりモノは労働から生まれ、
労働なくしてモノなしだと思うのです。

で、この段落でかなり驚いた次の次ぐらいに、
こんな内容が出てきます。

「狩猟民から漁撈民からなる民族のあいだでは、
 働ける人は誰でも、できるだけ働こうとする。
 しかしながら、そのような民族は、みじめなほどに貧しく、
 貧乏のあまり、幼児や老人や、長い間病気でいる人を、
 ときにはじかに打ち殺し、ときには遺棄して、
 人口を減少させねばならないほどである。

 これに反して、文明が進み繁栄している国民のあいだでは、
 多数の人々は全然労働しないのに、
このうちの多くの者は、働いている人々の大部分にくらべて
 十倍、いや百倍もの労働生産物を消費する。

 それどころか、この国の最も低く貧しい階層の職人でも、
 もし彼が勤勉に働く節約家であったならば、
 さきの民族よりも多くの分け前を受け取ることができるのである。」

「あ、これってワーキングプアじゃねえか!」と思った。
(そして、日本はもしかして前者になりつつあるのか?)

ここで述べられているロジックは、すなわち、

「労働量と豊かさは関係しない」

ということです。

「労働なくしてモノなし」といった直後に
「労働量と豊かさは関係ない」と言う。

ここがすごい。
「すべてのモノは人間の労働から作られているけど、
でもよく働く人々が豊かってわけじゃないんだよねー」
ということを、
早くも2ページ目で述べている。

なんと現代的な感覚!

そしてこのあとに続く内容が、

「なぜこのような差が生まれたのかということと、
 そして労働の生産物が、どのように分配されていくのかが、
 この本の第一篇のテーマである」

まったくもってポップである。
知りたい知りたい!というほかない。
ラクして儲ける方法でも書かれているのか。

ここでグッと読者を引き寄せるという力は、
なかなかほかの古典にはないです。

このあと、第二篇、第三篇、第四篇、第五篇の概要を
軽く説明したあと(それがまたキャッチーなのよ)、
第一篇の「分業」に入っていきます。

この「分業」もまた初めから相当おもしろい。
これだけで10分は熱く語れる。
「分業」の最初の10ページについてだけでブログが1本書けます。
それほどまでに『国富論』は示唆に満ちている。

古典のよさって、内容が良いというのもあると思うんですが、
それ以上に、「ものすごく考える材料になる」というのがある。
読んでいるときに、
「あれ、じゃあこの場合はどうなんだ?」とか、
「これって現代でいうとこれに当てはまるな」とか、
そういうのが次々と浮かんでくる。

結果、アダム・スミスの内容を理解しようとするつもりで、
実は「自分で経済学を考える」ことにつながっている。

あと、細かい内容というのは、読んでからしばらく経つと忘れますが、
自分で考えたことというのはなかなか忘れないので、
そこもいい点かなと思います。

けっこう経済学の本をいろいろ読んできましたが、
『国富論』はその中でもかなり上位かもしれない。
暫定1位のおもしろさ。

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