情報について考える

ここ数日気になってしかたないテーマがあって、
それは「情報について」である。
だいぶ昔から(高校生ぐらいから)気になっているのだけど、
ここ数日特にまた気になっているので考え直したい。

情報、というよりは学習、といったほうが、
テーマ的には近いのかもしれないけれど、
要するに一番気になるのは、
「自分の知らない情報をどう評価するのか」
ということだ。

知らないにも何段階かあって、
「見たことも聞いたこともまったくございません」
「名前ぐらいは知ってる」
「ちょっと知ってる」
「読んだ(or聞いた)けど理解できなかった」
というのがある。

たとえば僕はメルロ=ポンティという人が、
何をやった人なのかいまいちわからないし、
正直名前がイカレポンチみたいでおもしろいというぐらいしか
彼の印象はない。哲学科の人に殴られそうな言い方ですが。

あ、そうだ、そうそう、なんか現象学の人だっけ、
というとこまでは今思い出した。
けど、そこで止まってしまうし、
そもそも現象学ってなんだ?というとこがわかってない。

しかるに、たとえば今自分が「メルロ=ポンティを読むべきか否か」
ということの判断は、はたしてできるのだろうか、ということです。

つまり、メルロ=ポンティがどういうことを言った人で、
かつその著書にはどういうことが書いてあるのか、ということは、
一度彼の著書、『知覚の現象学』や『見えるものと見えないもの』を
読んでみないことにはわからない。

というのは一般化のしすぎで、
Wikipediaを見ればその概要が書いてあるから、
それを読めばだいたいどういう人かわかるじゃない、
という意見ももちろんある。

なるほど、読んでみると、だいぶ面白そうな感じはする。
けど、あくまで面白そうな感じ、ではある。
初めて聴くバンドのライブに行く前のようなもので、
本当におもしろいのかどうかはまず読んでみる必要がある。

じゃあつべこべ言わずに読んだらええがな、
という意見ももちろんある。

しかし、それでは何かが足りない。
なぜって、メルロ=ポンティ以外にも哲学者はくさるほどいるわけで、
その中からメルロ=ポンティを選ぶ必然性がまったくないからである。
もしかしたら今自分が読むべきはメルロ=ポンティじゃなくて
フッサールなのかもしれないし、あるいはまったく別の本なのかもしれない。
その優劣はどうやってつけることができるのか。
あるいはできないのか。

おそらく「自分が今もっとも読むべきはメルロ=ポンティ!」
という状態に達することはたぶんなくて、
「なんかわからんがメルロ=ポンティがよさそうだ」
ぐらいまでしか調べることはできないと思う。
ほかの哲学者について全部調べることはできないし、
そこまでやる時間と手間がもったいない。

それに、調べるっていったって何を調べるのか。
言ったことの内容も、いちおう調べられるけれど、
とくに哲学者なんてのはパッと見何を言ってるかよくわからない。

また、「いわゆるプラトン」「いわゆるアダム=スミス」のイメージも、
案外アテにならない、ということも、原書を読むとわかってくる。
原書はまちがいなく要約よりいろんなことが書いてあるし、
その「いろんなこと」のほうがおもしろかったりもする。

要は、読んでみてはじめてわかることがある、
というのは、なかなか否定できないと思う。

しかも、単に読んだだけでは、たぶん評価は完全ではない。
読み込んでみてわかるもの、何冊も読んでみて真価が理解できるもの、
というのも、けっこうあると思うからである。

また、プラトンについても、前期・中期・後期で内容が違うし、
マイルス・デイヴィスについても、やっぱり前期・中期・後期で内容が違う。
一冊だけ、あるいは一曲だけ聴いてその人の真価を理解するのはむずかしい。

長々と書いていますが、
要は「体験していないものを完全に評価できることはありえない」
ということが言いたいがためのたとえです。
食べログだって、レビュアーの舌、金銭感覚、オシャレ感覚などによって、
だいぶ違ったものが出てくることは否めないのだから、
行ってみないことにはそのお店のよさ・悪さがわからない。

だから、おそらく「真価はとどのつまりわからない」ということは事実なのですが、
「わからない」というところで止まってしまうと、
我々は判断停止をせざるをえなくなる。
基準となるものが何もないのだから、
完全にギャンブルか、あるいは慣れ親しんだ領域にとどまるしかなくなる。
飲食店の場合であれば、個人経営店の豊饒さを活用することなく、
チェーン店にひたすら行き続けることになる。

それではやっぱり困る。
いや、困らない領域ももちろんある。
たとえばランチ程度であれば、1食ミスっても1000円程度でおさまるので、
「ほぼギャンブル」でお店を選んでもいいと思う。
もちろんお金に余裕があれば、の話だが。
どうせチェーン店でも1食600円ぐらいは使うので、
差額の400円がミスったときの損失になる。

だが、たとえば哲学の本とかなると、
読み通すにはそれなりの時間(4時間~10時間)は必要になるし、
それを時給換算すると割とバカにならない。
学生は時間が余っているのでこういうこともできるけど、
社会人が4時間~10時間かけて哲学の本を読んで、結果何も理解できないと、
それはすさまじい損失である。
あ、だから「学生のうちに本を読んどけ」と言われるのか。なるほど。

もっというなれば、たとえば大学選びや会社選びはどうだろう?
大学選びに失敗すれば、したくもない勉強をおそらくは4年間するわけだし、
会社選びに失敗すれば、さらにスケールが大きい損失になる。
途中でやめればいいじゃない、という意見もあるが、
やめた後どうするのかがまた別の問題となる。

「その真価がよくわからないものについて選択する」というときに、
対処する方向性としては2つに分かれるのではないかと思う。

1.情報の精度を上げる
2.判断後の対処をよくする

「情報の精度を上げる」というのは、
たとえば信頼できる情報筋を見つけること。
音楽の場合であればDJだし、本の場合であれば読書家。
食べ物の場合はグルメ雑誌とか、門上武司さんとか。
そういう「信頼できるレビュアー」を見つけて、
その人の言うことになるべく賭けてみる、というのはひとつの手段。

ただ、これについても、
「そのレビュアーの素晴らしさをどう判断するのか」
についてはまた難しい問題が浮上する。

でも、我々が「よくわからないものについて判断する」
というときにとっているのは、一般的にこの方法ではないかと思う。
情報通や、何らかの権威、あるいは友人・知人の意見をもとにして、
自分じゃよくわからないけどなんだかこれがいいらしい、
という方法でよく判断している。

「これがいいらしい」で試したあとの感想については、
「読んでみたらすごく面白かった」とか
「聴いてみたけどいまいちだった」とか自分で判断ができる。

とはいえ、やっぱりここにも
「いや、何回も聴いてるうちにその良さがわかるんだって」
というジャンルのものもあったりして、
なんともいえない。
プラトンだって最初は文体の違いに面食らうが、
慣れればだいぶおもしろい。
むしろそういったとこだけを重視して、
文体はポップでキャッチーだが中身のない本だけを読むのも、
これはこれでまた損失である。
しかしそもそもそういう人はその本が「中身がない」ということを
認識できるのだろうか。これもまた問題である。

そう、自分がいいと思っているものは本当に「いい」のか、
という問題もあって、これはかなり大きいのですが、
とりあえず今は置いておきます。

2番目、「判断後の対処をよくする」というのは、
実際にはむずかしいことが多いのですが、
まあなんというかリスクヘッジ的なことだと思います。

「よさそうだ」という情報に基づいて判断したのであれ、
ほぼギャンブルに基づいて判断したのであれ、
判断したあとで「あ、間違えた!」「あ、おもしろくなかった!」
と感じた時に、どうするのか。

個人的によくやるのは「勉強代にすりかえる」というので、
おもしろくなかったりマズかったりした場合、
「あ、なるほど、世間ではこう言われているけど実際こうなのか」
という風に考えて、「勉強になったなあ」ということでモトをとる。
あるいは、「これをおもしろいと思う人がいるのはどういう理屈だろう」
ということを考えてみるなど。
哲学書の場合、とりわけ「これをおもしろいと思う人がいるのはどうしてか」
というロジックを使います。それを考えているうちに良さがわかったり。

「自分の価値観のほうを変える」というのもあって、
よさがわからないものについても、なんとかよさをわかろうとする、とか。
まあこれも、そこまでして良いものを追い求めなきゃいかんのか、
という問題点はありますが。

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しかるに今の自分を考えると、
ほぼあらゆるものについて情報が足りんなあという感じがします。
ふしぎなことに。
情報社会ではあるんですけれど。

何を読めばいいのか、どの本がおもしろいのか。
どんな音楽が今はやっていて、誰の曲がいいのか。
どんなラジオ番組があるのか。
どのニュースを読めば政治がわかるのか。
京都市内ではどの飲食店が安くてうまいのか。
オシャレだけど良心的な価格のカフェはどこにあるのか。

ときどき思うのは、
こういう情報問題が解決すれば不景気ふっとぶんじゃね?
ということなんですけどね。

社会が低リスク志向になると当然新しいものを買うことは控えるわけで、
そうなると無料のビジネスか既存のビジネスしか生き残れない。
そりゃ不景気にもなるわさ。

低リスク志向を変えろ!といってもそれは無理な相談なので、
低リスク志向の人にも安心な、情報の整備がなされれば、
もうちょい消費とかマシになるのになあーと思うんですが。

俺かて多少高くてもおいしいご飯は食べたいし、
おもしろい映画があるなら映画館で見たいんです。
しかしそれを判断するすべがないし、
ランダム化実験ができるほどお金に余裕があるわけでもない。
結果、「値段」が何よりも重要なファクターになってしまう。
それっておかしくないか?というのは割と最近よく思う。

twitterのようなSNSって、
むしろどちらかといえば「レビュアー」的側面をもってるし、
いわゆる「キュレーション」に近い感じはするんですけども、
そこがそんなに情報プラットフォームとしては活躍してなくて、
どちらかといえば相互承認の場になっているのはなんでだろう。
それはそれで楽しみとして必要なんですけど。

Flying Lotusが11/24に大阪に来る、ということを知ったのも、
Flying Lotusのツイッターじゃなくて、スタジオラグに貼ってたポスターで
知りましたからねえ。
なんなんだろうネットって。これが情報化社会なのか?

たぶん、佐々木俊尚さんとか、
あるいは身の回りの情報感度が高い人(何人か思いつく)は、
何かしらネットで情報を収集するすべを持っているのでしょうが。
自分はニュースサイトとか見ないですしねえ。うーん。

「レビュアーのレビュアー」問題がやっぱり大きいのかもしれない。
そのレビュアーの言うことを信頼する根拠はなんなんだ、という。

そしてこれは無限退行問題なので、実は原理的に解決しない。
「レビュアーのレビュアーのレビュアー」が必要になってくるので。
そう考えるとレビュアーはやっぱり一段階だけでいい。

となると、レビュアーっていうのはやっぱり、
「えいやっ」で「この人を信頼しよう」で見つけていくもんなんですかね。
で、しばらく信頼してみて(新聞にたとえると購読してみて)、
そこで自分に合うかどうかを判断していく、ということなんでしょうか。

それしかないとしたら、
問題は「情報の精度を上げる」ではなく、
むしろ「判断後の対処をよくする」にあるのかもしれない。
「よいレビュアーを見つける」ことが問題なのではなく、
「レビュアーについて正しく評価する」ことなのかも。

そろそろ字数が5000字なので終わりますが、
この問題はまだまだ継続して考えていきたいと思います。
おそらく続編あります。
じゃ。

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