クリスマスと不毛な戦争

クリスマスについてちょっと考えてみたいんです。

毎年毎年、クリスマスの時期になりますと、
というか正確にはもはや12月になりますと、
やれリア充がどうしたとか、爆発しろとか、アルカイダとか、
ビスミッラーヒ・アッラーフ・アクバルとか、ぼっちでぐぬぬとか、
そういう話がわんさか出てくるわけですが、

いったいこれはなんなんだろう。

この現象はなんなんだろう。

いや、もちろんある程度は
「そうするのがモード、今の流行り」ということで
みんなそうしている面もあるかと思いますが、
でも中にはそこそこ本気でぐぬぬと思っている人もいるわけで、
これはいったいなんなんだろう、なぜそうなるのか、ということを、
一度真剣に考えてみたら何か分かるかもしれない、
と思って、ちょっと考えてみたい。

プラトン風に。

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ソクラテス「ならばボッチウス、君はクリスマスを独りで過ごすつもりなのかね」
ボッチウス「そのとおりですよ、ソクラテス。
 世人が彼女や彼氏とエロースの営みをしているというのに、
 この私ときたら独りで鶏料理とケーキを食うほかないのですよ」
ソ「なるほど、しかしどうして君はそのことをそんなに悲しむのかね。
  というよりもぼくには、むしろ君はそのことを少し楽しんでいるように見えるのだが。」
ボ「何をおっしゃるのですか、ソクラテス。
  私が楽しんでいるなどということがどうしてありましょう。」
ソ「なぜってきみ、きみは自分の好む鶏料理とケーキを食しているのだし、
  おまけに文明の利器を使って自分の好きなものをいくらでも観れるではないかね」
ボ「たしかにそうなのですが、ソクラテス、しかし、
  世の大半のひとびとは、やはり恋人とエロースの営みをしているのですよ。
  そのことを思うと私は気が気でなりませんね。」
ソ「ならばきみは、世人とくらべるがゆえに悲しむのだね。」
ボ「そのとおりです。」
ソ「ならばきみ、つぎのようなことを考えてみよう。
  たとえばアラビアの人々というのはほとんどがヒゲをはやしているものだが、
  きみにはヒゲがない。きみの民族はヒゲがさほど濃くないからね。」
ボ「よく知っております。」
ソ「ならばきみは、そのことを知って悲しむだろうか。」
ボ「いえ、もちろんそのようなことはありません。」
ソ「そうだろう。
  ではきみは、次のことに同意するかね。
  すなわち、ヒゲがはえているかはえていないかはたいした問題ではない、と。」
ボ「もちろんです。」
ソ「だがしかし、きみ、アラビアの人々のあいだでは、
  ヒゲがはえているかはえていないかは大きな問題なのだし、
  われわれアテナイ人にとってもまた、
  ヒゲのあるなしは大きな問題なのだよ。」
ボ「そうなのですか。」
ソ「そうなのだよ。」
ボ「しかしソクラテス、わたしが知りたいのはそのようなことではありません、
  すなわち、なぜこんなにもわたしはクリスマスが憎いのかということなのです。」
ソ「それについては次のようなことを考えてみる必要があるだろうねえ。
  すなわち、きみは恋人がいるすべての人々を憎むのだろうか。」
ボ「もちろんです。」
ソ「それはずいぶんときっぱりと言うね。」
ボ「もちろんです。」
ソ「では、クリスマスを恋人と過ごす人と、
  それ以外の日々を恋人と過ごす人とでは、どちらが憎いのだろうか。」
ボ「それはもちろんのこと、クリスマスにエロースの営みを行う人々です。」
ソ「だろうね。
  それはなぜなら、クリスマスというものがやはり、
  ひとつにはエロースの営みを行う日という習慣(ノモス)が形成されているからだろうね。」
ボ「まことにそのとおりです。」
ソ「しかしきみ、この世の摂理というのはみな、
  人々の習慣(ノモス)と自然(ピュシス)によって成立しているのであり、
  ノモスだけでなくピュシスを見なければ真実在を想起することはできないのだよ。
  そして、われわれ人間というものは不安定でうつろいやすいものだから、
  ノモスもまたうつろいやすいものである、このことにきみは同意するかね。」
ボ「そういうことにしておきましょう。」
ソ「ではきみ、クリスマスを恋人と過ごすべきである、というのは、
  ノモスに属することがらなのだろうか、あるいはピュシスに属することがらなのだろうか。」
ボ「それは、ノモスに属すると言わざるをえません。」
ソ「まことにそうなのだよ、ボッチウス。
  そしてまた、このようなノモスの移り変わりをよく知ることによって、
  我々はピュシスへとたどり着くことができるのだから、
  一度このことについてはよく調べておく必要があるだろうねえ。」
ボ「どうやらそのようです。」
ソ「では、ひとつ調べてみることにしよう。」

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ソ「して、ボッチウス、きみの国はそもそもキリストの教えを信じる国ではないのではないかね。」
ボ「まことにそうなのですよソクラテス。
  なにしろ、われわれの国の人は時期によって信仰を変えるのですから。」
ソ「では、どうしてクリスマスなるものが持ち込まれたのだと思うね。」
ボ「それは、おそらく、宣教師と呼ばれる人が持ち込んだのでしょう。」
ソ「まさにそのとおりだよ、ボッチウス。
  そのようなことがあったのが16世紀のころであり、
  このころは本当にキリスト教のお祭りであったのだ。
  これが世俗化するのは20世紀に入ってからのことであり、
  1904年にはじめて明治屋がクリスマスツリーを設置したのだ。」
ボ「そうなのですか。」
ソ「そうなのだ。
  そして、なおそのころにいたっても、
  けっしてクリスマスはエロースの祭典ではなかったのだ。
  というのもきみ、お見合い文化が華やかなりし頃だからね、
  男女の自由恋愛というものも今ほどあったわけではないのだよ。
  このころのクリスマスは家族や子どもたちのため、
  それもかなり裕福なひとびとのものだったのだよ。
  それどころか、かつてクリスマスは
  『大正天皇祭』とさえ呼ばれていたのだからね。」
ボ「それはもはや、キリストとは何の関係もないではありませんか。」
ソ「そうなのだよ。それがまさしくきみの国らしいところだ。
  だが、このクリスマス文化も、戦争が始まるにつれ下火になり、
  1945年の敗戦をむかえたあと、また徐々にもりあがってくるのだ。」
ボ「たしかに、われわれの国はアメリカの影響をおおいに受けたのですからね。」
ソ「そう。
  だがきみ、クリスマスがまさに今きみが思うようなエロースの祭典になったのは、
  いつごろだと思うね。」
ボ「それはもうおそらく、敗戦直後なのではないですか。
  なにしろアメリカときたらエロースの国ですからね。」
ソ「そうではないのだ。
  クリスマスがアフロディジア(※1)の日として知られるようになったのは、
  80年代に入ってからのことなのだ。」

※1.アフロディジア:「アフロディーテの営み」のこと。転じてエロースの営み。

ボ「そうなのですか。」
ソ「僕もまるで知らなかったのだが、どうやらそのようだよ、ボッチウス。
  というのもきみ、まさにあの時代ときたら、
  愛情というものをお金で表現するしかなかったのだからね。
  商人たちは恋人たちに目をつけたのだよ。
  クリスマスをエロースの祭典へと変化させることによって、
  彼らはより多くのムナ(※2)を稼ぐことができたのだ。」

※2.ムナ:古代ギリシャの通貨単位。1ムナ=労働者の給与100日分。

ボ「それはまさしく、私にとって目から鱗が落ちるかのようなことがらですねえ。」
ソ「まことにそうなのだ、ボッチウス。
  そこできみ、きみがまさに悩んでいた事柄にもどってみよう。」
ボ「どうやらそうしたほうがよいようです。」
ソ「ところできみは、どちらの言うことに従って生活をするかね、すなわち、
  よく勉学をおさめ、よく運動をし、よく政治をすることができる人の言と、
  節制と勇気と知性の徳をそなえてもおらず、
  ただ放縦に欲のみを追いかけて生きる人の言とでは。」
ボ「いうまでもありませんよ、ソクラテス。」
ソ「そうだろうね。
  ではきみ、愛情をお金に変えようとする人は、
  どちらの人により近いだろうか。」
ボ「それはもちろん、あとのほうの人でございます。」
ソ「ならば、恋人たちを金もうけの道具にする人もまた、そうなのかね。」
ボ「まさにそのとおりです。」
ソ「ならば、そのような人たちの言葉にしたがって生活はしないだろうね。」
ボ「もちろんそうでしょう。」

ソ「そこでたずねるのだが、ボッチウス、
  きみは、クリスマスを恋人と過ごすべきなのかね。」

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