懐疑主義を超えて

最近めっさ思うのが、懐疑主義の限界ということでして。

懐疑主義ってすごくラディカルなんですよ。
確実に思われたもの、一見すると強固なものを、
根底から覆したりすることができるので、
非常に懐疑主義っていうのは力強い発想に見える。
しかも、懐疑主義になるのは非常に簡単。
これほど魅力的な考え方はほかにない。

が、しかし。
懐疑主義は、何かを壊すことにかけては力を発揮するんですが、
何かを建設するということになると、まるきり力がありません。
ダイナマイトみたいなものです。
ダイナマイトで建築は作れない。

そして我々はなんらか建物を建てないと生きていけない。
どうすればよいのか。

要するに、ダイナマイトで既存の考え方を壊したあと、
で、どうするのか、ということです。
これが非常にむずかしい。

そこで新しい建物を建てたとしても、
その建物さえもやっぱりダイナマイトで壊そうと思うと壊せるので、
ダイナマイト大好き人間(=懐疑主義者)からすると
「そんな建物は駄目だ」ってことになる。

じゃダイナマイトで壊せない建物ってなんですか、
ということになると(なんかこの調子で歌詞が書けそうである)、
なんか斬新な発想をしてみせようとする人が
「建物を建てないことだ!」と言ったりする。

なるほどそれは素晴らしい。
われわれは野宿をすべきなのだ。

あれ?

でもなぜ我々はダイナマイトを使ったんだっけ?
「旧来の建物にガタがきてるから」ではなかったか?
断じて「野宿をするため」ではないのでは?

では、旧来の建物に住むのと野宿ではどちらがよいだろう?
あきらか旧来の建物なんじゃないか?

ということで旧来の建物に住もうとする人が出てくる。
そうするとまたダイナマイト主義者が出てきてこれを破壊しようとする。

たぶんポストモダン思想が出てきたぐらいから、
思想界というのはえんえんこのループにはまっているのではないか。
ダイナマイト→破壊→野宿→反動→旧式建築→ダイナマイトという。

このループが続くと、やがて
「野宿派」と「旧式建築派」に二分化していく。
しかしよく考えればわかるように、これはどちらも不健全である。
片方の生活はずいぶん厳しそうだし、
片方の生活は少しは楽かもしれないが、いろいろ不便そうだ。
そうじゃなくて、「ふつうの家」ができないものか?

そういうわけで「野宿派」「ふつうの家派」「旧式建築派」の3つができあがる。
しかしこの中で一番不利なのはふつうの家派である。

議論があまりにも建築のたとえにすりよってしまったので、
もういっぺん考え方の話に戻して考えよう。

懐疑主義、これは実に、キレのいい言説を生み出すことができる。
いわく、「○○には○○という可能性があるためこれもまた確かな根拠になりえない」
「○○には○○という偏りがあるため、これも判断の材料にするのはよくない」など。

旧式建築派、というのはいったい何のことかというと、
なんらかの理論を、疑うこともなく信奉することである。
彼らはまったく自分の正しさを疑うことがないので、これまた非常にキレがいい。
いわく、「○○派の連中はバカですよ」「○○という方法しかないのがどうしてわからないのか」。

いっぽう、「ふつうの家派」というのは、
あんまり抽象的な提言をすることができない。
「いろんな選択肢を比較しつつ、できるだけベストのものを選ぶべきですねえ」
「まったく間違ってるわけじゃないですし、そこそこ正しいんじゃないでしょうか、この理論」
これでは戦うことができない。
他の2つの威勢のよさにはまったく勝てない。

「ふつうの家派」は蓋然的に正しいものを追い求める。
いっぽう他の2つは絶対的に正しいものを追い求める。
蓋然的なものを理論化するのはむずかしい。
絶対的なものは理論化にとても向いている。
科学法則というのはあるけど、文学法則というのはない。
社会学とか経済学のような蓋然的な学問が言えるのは、
「こういう状況だとこういうことが起こりやすいですねえ」
というレベルまでである。

(ただ、科学の世界でも最先端まで行くと、
 こういうことが「起こりやすい」レベルの話になってくるらしい)

蓋然的にもさらに2つのレベルがあって、
「確率的に言える」と「確率的に言えない」がある。

たとえば天気予報の言明は「80%で雨」である。
けどたとえば今日出勤して上司の機嫌が悪いかどうかは、
これはもう確率にできない。というより確率にするのがアホらしい。
仮に、まめに統計をとって、
「雨が降ってる水曜日の場合課長が不機嫌な確率90%」
というのが出たとして、そこまでしようと思わない。

あるいはそもそも現実世界においてそこまでのデータがとれない。
こういうのは「確率で言うことすらできない蓋然的な話」である。

たとえばある人が自分のことを好きかどうか、なんてのは、
たしかにデータを集めようと思えば集められるけど、
それをがんばって確率論に集約させるのはやはりバカげている。
なんとなくでしか言うことができない。どこまでいってもわからない。

けど、これを絶対的な議論に落ちつけようとするのも、
やっぱりバカげている。
懐疑主義者が恋愛をしたら、
相手の気持ちを判断することができず、何もアプローチできないだろうし、
絶対主義者が恋愛をしたら、
相手も自分のことが好きだと思いこんで突っ走るだろう。
どちらもおかしい。

「よくわからない」ものは「よくわからないもの」として扱いながら、
なおかつ判断を下すというのも一つの戦略である。

それはとてもキレのよくない考え方であるが、
実際的なことを考えるとそうならざるをえない。

「じゃあ具体的にどう判断すればいいのか」というと、
これはもうそっくりそのまま「具体的に判断する」としか言えない。
なので「ふつうの家派」は弱い。
抽象的には何もアドバイスができない。本にすることができない。

「ふつうの家派」が勝てる場所があるとしたら、
それは具体的な提言においてである。
懐疑主義も旧式建築派も、具体的な提言ができなくはないが、
非常にワンパターンになる。
が、ふつうの家はいろんな可能性を出せる。
なにしろ「信じない」と「信じる」の間なので、圧倒的に選択肢は広い。
必然、適切なものを選べる可能性も高い。

なので、実際的な哲学ということを考えると、
圧倒的に「ふつうの家」が有利なのである。
けどそれは本に書くことができない。
「ふつうの家」をあちこちに建てていくには、地道な活動が必要となる。

今回たまたま懐疑主義をテーマにしたけれど、
どんなシーンにおいても、中道派というのはだいたいつらいのかもしれない。
一番まっとうであるが、一番他人に伝わりづらい。

懐疑主義を言論で論破することはたぶん難しくて、
実際になにかやるしか方法がない。
ただもちろん、懐疑主義がダメと言っているわけではなく、
何かをチェックする方法としては非常に有用である。なので覚えておくのはよい。

ただやっぱり、いろんなものをダイナマイトで爆破していくだけでは、
それなりに気持ちいいかもしれないが、あまり生産的ではない、
ということは、もうちょっと声を大にして言われるべきである。

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