感じるな、考えよう

旭化成のCMのキャッチコピーに、

『考えよう。答えはある。』

というのがあります。
CM自体のメッセージにはそこまで共感できないんですけど、
このキャッチコピーはいいコピーだなあと思う。

ーーーーーー

『燃えよドラゴン』で、
ブルース・リーが放った有名なセリフに、

『考えるな、感じるんだ』

というのがあります。
これもいい言葉だと思う。

武術とか、あるいは楽器の演奏とか、
非言語的なものに関しては、考えるより感じた方がよい。
しかも、自分の体がどう動いているのか、いまどういう音が鳴っているのか、
といったことをバランスよく意識することも必要です。

「考える」というのは言語的な行為だし、
意識を一点に集中することでもあるので、
そういうものとの相性はたぶん悪いのでしょう。

ーーーーーー

しかし、この『考えるな、感じるんだ』を、
座右の銘というか、生活の一般的指針として取り入れているような人もいて、
そういう人を見ると、「それはちょっと違うだろう」と思うことがある。

「考えるな、感じるんだ」がつねに「正しい教え」であるためには、
「考える能力」よりも「感じる能力」のほうが常に高くないといけない。
「感じる」方が、認識方法として優れている、ということでないといけない。
いうなれば、理性より感性のほうが素晴らしくないといけない。

じゃあそこで思うのですが、
われわれの「感性」って、そんなに立派なものなんだろうか?

われわれは「考える」を放棄して「感じる」さえすれば、
さまざまな物事がはっきりと見えるようになり、
何もかもわかるようになるんだろうか?

そんなわけはない。

まず、鋭敏に「感じる」ためには、ある程度の訓練が必要。
たとえば「時代の空気を感じる」っつったって、
なんのニュースも読まず話も聞かず、
ろくに外界に関心がない人が、何を感じることができるだろうか?

また、たとえば法律とか経済学のようなものを
「考えるのでなく感じる」のも無理がある。
そういうのは「考え」で出来ているので、
同じように「考え」で読み解いていかないといけない。

「考えるのでなく感じる」が正しい場面というのは、
おそらくすごく限られていて、
たとえばダンスだとか、音楽だとか、スポーツだとか、
あるいはトークとか、ファッションとか、そういうものである。
それらにしたって、考えようと思えば考えられないこともないし、
そういうものを「売り込む戦略」とかについては、
感じるより考えた方がいい。

ーーーーーー

もちろん、感覚的なものは無用の長物、
理性で認識できるもののみが真実である、
みたいなことを言いたいわけではなく。
感覚は感覚として大事なんですけど、
それはあくまで材料であって、
何かの方針を決めるって時に感覚で決めたらいかんだろうと。
感覚的・非言語的なものも相当に大事なものではあるんですが、
感じるだけでは、何事かを決めたり解決したりできない。

僕らはたぶん、考えることが大嫌いであると同時に、
考えることに対する自信も失っていて、
「俺が考えたからといって何がわかるのだろう」
「考えたところで結局間違ってるかもしれないしなあ」
という雰囲気をかなり抱え込んでいる。

でも、本当に考えることは無意味なのか、
本当に「計画性」とは無意味なものなのか、
そういったことを今もう一度疑ってみたい、ということを思っている。

「考えることが無意味である」ということだけは
どうして疑わずに信じることができるのか。
考えることが無意味であるのなら、
その考えすらも無意味なはずじゃないか。

別の言い方でいうならば、「自信がない」という人は、
『どうして「自分が卑小な存在にすぎない」という
 自己評価の正しさに対してだけは絶対的な自信を持っているのか』
ということを疑うべきだと思うんですよ。
果たして自分は自分のことをそんなにも正確にモニタリングできるのか。
そもそもそれが間違っているんじゃないか。

それと同様に、
「考えるな、感じるんだ」ということ自体が、
そもそも「感じ」ではなく、単なるイデオロギーというか、「考え」の一つである、
ということをもっと着目してみてもよくて。

「あ、今はきちんと落ち着いて考えた方がいいな」
っていうのは、考えじゃなく、むしろ「感じ」だと思うし、
そう感じることは、日常のなかで結構あります。
けど、そういう感覚を、「考えるな、感じるんだ」という「考え」で
封じ込めてる、ということもよくある。
それは字面としては「考えるな、感じるんだ」を実行しているわけですが、
実態としてはまったく逆の行為を行っているわけです。

トータルな意味で「考えるな、感じるんだ」を実践しようとしたら、
当然考えることもやるし、感じることもやる、
その両方になるはずなんですよ。
「考えたい」っていうのは結局そう自分が感じてそう思うわけですから。

実際のところ、「考えるな、感じるんだ」を金科玉条として暮らしている人は、
考えてもいないし、感じてもいないわけです。
ほかの何か、そういうイデオロギーに従うことが目的になっているわけです。
それはなんというか宗教的帰依みたいなものに近い。あるいはプライド。

「考えたい」とか「考えないでほっておくともやもやする」とか感じたら、
それはもう、おそれずに考えたら良いわけですよ。
感覚的に不快ということは、あってはならない。
感覚を大事にするなら、なおさら。

考えよう。答えはある。

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