遅刻の自由、時間という貨幣

僕はよく遅刻をしてしまう方で、
大学の授業なんか、必ず毎回10分は遅れていました。
時間通りに出たことがたぶん両手で数えられるぐらいしかない。

それは、大学の授業っていうものが、
基本的には10分遅れてもなんら困らないものだし、
むしろ、最初の10分ぐらいはすごくダラダラした話をしてるから、
そのへんをカットして本題に入れる、むしろ得策、みたいに思ってるからです。

あるいは、友達との待ち合わせも、割と遅れてしまうことが多い。

これについては、なんというか時間にルーズな友人が多いのと、
あとまあ友人というふわっとした関係なので、
あまりきっちりと時間を守りすぎるのも、それはそれでどうなのかな、
という、そういう思いがあるわけです。

端的にいうと、
遅刻に対する倫理観が低いです。
そりゃ遅刻するよりしない方がいいんだけれど、
ものすごく悪いこと、とは思えない。

というのは、海外とか沖縄の話を聞いていると、
基本的には遅刻するのが当たり前ですから、
その人たち基準で考えると、遅刻っていうのはそんなに悪いことじゃない。
まったく悪くないわけじゃないけど、「なにがそんなに大事なの?」ぐらいの感覚でいると思う。

そもそも、時計の歴史を見ればわかるように、
「正確に時間が測れること」というのはつい最近になってからなので、
それ以前には遅刻というのはなかったわけです。いや、あったけど。
あったにしてもそれほど咎められることではなかった。
(このへん『遅刻の誕生』という本にくわしく書かれています)

そのへんの、歴史的・地理的な事情を考えると
「遅刻は悪」「遅刻をしないのは最低限のマナー」というのは、
どうも現代日本だけの超ローカルルールのような気がしてならない。

とはいえ、「郷に入っては郷に従え」というとおり、
その超ローカルルールに従うことが大事なんだよ、というのも、
まあわかります。わかりますが、でも超ローカルルールであることに変わりはない。

――――――――――――――――――――――

「遅刻しないでおこう」と思えば、できないわけではない。
現に、予約をとっている新幹線や夜行バスの時間はきっちり守るし、
自動車学校の授業(遅れると罰金をとられる)や、
あるいは期末試験の開始時間には遅れたことがない。

ということを考えると、遅刻というのはたぶん、
「出かける準備に手間がかかる」とか
「歩くスピードが遅い」とかそういうことではなく、
ものすごく心理的なものである。

つまり、遅刻する人には「遅刻する心理システム」があるのだし、
遅刻しない人には「遅刻しない心理システム」があるのではないか。
それがどう違っているのか、なぜその違いは生じるのか、
ということを分かれば、遅刻に関する諸問題が多少クリアになるんじゃないか。

とりあえず自分は「遅刻する人」なので、
「遅刻する心理システム」がどういうものか考えてみたい。

しかし、堂々と「自分は『遅刻する人』である」って宣言するのも
なんか変な感じですね。「自分は人のものを盗みがちです」って宣言するような感じ。

――――――――――――――――――――――

最初なんとなく考えていたのが、
「自由時間を最大限伸ばそうとするからそうなる」という説明です。

どういうことかというと、
ある用事があるとして、その用事の場所に着いてしまったら、
「その用事」に拘束されるわけです。
しかし、それまでの時間は自由時間である。
ならば、わざわざ早く着いて自由時間を減らすこともないのではないか、
という考え方。

たとえば5分早く着いたのならその5分は「待ち時間」になってしまうわけだから、
そのぶんだけ自由時間が減ってしまう。これはよくない。

反対に5分遅刻すればその5分ぶん自由時間が増えたことになる。
いや、実際は違うけれど、名目上はそういう風に見える。
つまりトクをしている。やったね。

以上のように、最初考えていたんですが、
だとすると説明できないのが、なぜ友達との約束もやっぱり遅れるのか、ということです。
いや、もちろん友達とは会いたいし、できるだけ長く話をしたい、
そのためなら終電を逃すこともやぶさかではない、
というぐらい、友達と会うのはまあ好きですし、楽しみな用事なんですが、
それにもやっぱり遅れてしまう。これはなぜなのか。

――――――――――――――――――――――

実際、僕が何か待ち合わせに出かけようとするときは、
かならずギリギリを狙います。
「ギリギリが一番美しい」みたいな価値観がある。
待ち合わせが12時だとしたら、12時ちょうどに着くのが美しい。
11時50分ではダメ。12時10分でもダメ。

なぜこういう価値観なのか。

あるいは、「今やらなくてもいいことは今やらない」とか
「今考えなくてもいいことはなるべく考えない」というのもあります。

これもなぜなのか。
上2つとも、「いずれやらなきゃいけないこと」か
「いずれ考えなきゃいけないこと」なのに。

――――――――――――――――――――――

それはやっぱり、拘束というものを何より嫌うからでしょうか。
自由が第一。アメリカ人みたいだ。
もしくは板垣退助イズム。板垣退助イズムって字面がいいですね。

今やらなくてもいいなら、「今やらない自由」を存分に謳歌すべきではないか。
今出かけなくてもいいなら、「まだ家にいる自由」を存分に楽しむべきではないか。

というマインドが、ギリギリまで何かをしないように仕向けている、
という可能性は、やっぱり高いと思います。

しかし、だとすればこれに対する批判としてありうるのは、
「最後まで放置しておいたら、むしろ自由が無くなるのでは?」ということです。

たとえば、8月末まで夏休みの宿題を放置していれば、
8月の最終週は宿題に追われ、自由が無くなるでしょうし、
あるいは時間ギリギリに出かけたとしたら、
寄り道をする自由が無くなるわけです。

もし余裕をもって宿題をすませたり、家を出発したりしたら、
突然友達と遊ぼうということになっても遊べるし、
あるいは気になるお店があったらぶらりと入ったりできるわけです。

そのへんの理屈が、どうも「遅刻する人」には理解できない。
というのは、その人たちは自由の計算式が違うからです。

たとえば宿題をやるのに100時間かかるとしましょう。
そうすると、その100時間をどこにどう配分するか、
ということに関しては、この人たちはまったく関心が無い。
100時間は100時間であり、
それを30日にわけて3.3時間ずつやろうが、
10日で10時間ずつやろうが、まったく同じものに見えるわけです。

「え、でも合計したら100時間じゃん?何が違うの?」
と彼らは言うわけです。

彼らを説得する方法があるとしたら、
次の2つです。

1.「分散してやると、100時間より短くなる」
2.「放置しておくと、100時間より長くなる」

たとえば、人間の集中力というのは長く続きませんし、
1日に頑張れる量というのも限界があるわけです。
それを毎日小サイズに分けてやることで、
結果として集中して終わらせられる可能性がある。それがひとつ。

もうひとつは、僕の実例でいえば歯医者の検診とか、不動産探しなんですが、
長い間放っておくことで虫歯が悪化したり、
あるいはいい物件が少なくなって探すのに手間がかかったり、
もしくは同じ時間かけてもより悪い物件しか見つからなかったりして、
結果として時間がかかる、もしくは費用対効果が悪くなる、そういう可能性。

こういうことを書くと、彼らはおそらく「なるほど」と言うでしょう。
論理的には理解できるはずです。れっきとした事実なので。

そして、こういうことをより心理学的な味付けをして書いた本は、山ほどあります。
『グズの人にはわけがある』、『「グズ」をやめる心理術』、
『なぜあなたはその仕事を先送りしてしまうのか?』、エトセトラ。

これらの本がまったく効果が無いとは言いません。
ただ、おそらくこれを読んだからといって、
そう簡単に治るとも思えません。それはなぜなのか。

――――――――――――――――――――――

僕らは未来の自分に責任を持ちたくない。

より簡単にいえば、
「未来の自分」を「自分」と思えるかどうか、です。

「自分」というのがもし「現在の自分」だけだとすれば、
それはもう、「現在の自分」から見て得な行動だけを選択すればよいわけです。
なんでも好きなものを食べればよいし、貯金とかしなくてよいし。
やりたいことだけをやれば、それはもう「現在の自分」的には最高にハッピーなわけです。

むろん、「あきらかに悪いこと」は僕らはやりません。
たとえば犯罪的な行為をすれば、それはまあ確実に捕まるだろうし、
その結果未来の自分があきらかに悪い状況になる。
そういうことを想像できるぐらいの想像力は持っている。

しかし、「もしかしたら悪いかもしれないこと」のレベルになると、
判断がぼやけます。やらなくてもいいけど、やってもいいかもしれない。
無知は原則として罪になりませんから、
「ごめん、これがこういうことになるなんて知らなかったんだよ~」と言えば、
それで僕らは未来の自分に責任を持たなくてすむわけです。
無知は幸福です。

たとえば国の借金とか、地球温暖化だって同じ話で、
僕らは未来の世代に対して、
「まさかこういうことになるとは思わなかった。すまん」
とさえ言えば、それでもう責任はとらなくてすむわけです。実際はすまないけど。

ということを考えていくと、
「遅刻は罪にならない」という考え方は、
「未来の自分を自分としてカウントしない」という考え方につながるし、
それはひいては「無知は罪にならない」という考え方になっていきます。

だとすれば、遅刻をなくすのには、
そもそもの「無知は罪にならない」という考え方を切っていかねばならんのではないか。
実際、遅刻する人の言い訳は次のようなものです。

「電車の時間を間違えちゃって」
「待ち合わせの場所に迷っちゃって」
「家族喧嘩しちゃって」

これらはすべて、「自分は無知である」ということを主張しているわけです。
最後だけ「予想外の事象」ということになりますが、
これも広い意味で言えば「無知」の一種です。

すべての無知が罪にならないわけではないし、
すべての無知が罪になるわけでもないでしょう。
たとえば地震が起こって遅刻しちゃいました、からといって、
「なぜお前は今日地震が起こることが分からなかったのか」と
問い詰められたら、その上司を殴った方がいい。そもそも待ち合わせとかどうでもいい。
けど、もしあることを「意図的に見ない」「意図的に考えない」ようにしていて、
その「見なかったもの」もしくは「考えなかったもの」が結果的に、
大きな影響、被害を及ぼしてしまったとしたら、それは罪なんじゃないか。
そういう話をしようとしています。

ということを考えると、遅刻は倫理学の問題です。

遅刻をなくそうと思ったら、
遅刻する心理メカニズムを話すよりも、
そもそも「遅刻は本当に悪なのか」というところを疑った方がよい。
その結果「こういう遅刻は悪いけど、こういう遅刻は仕方ない」というところが分かり、
その結果「遅刻の悪さとは、つまりこういうことである」ということがわかるでしょう。
その結果「遅刻する人」は「遅刻の悪さ」がわかり、
「遅刻しない人」へと変貌するでしょう。
彼はそもそも「遅刻の悪さ」を理解していないから、遅刻するわけです。
僕がまさにそうです。

最後に堂々と、自分が遅刻することを正当化してやりましたが、
実際あらゆる犯罪者は、そういうものだと思います。
彼らはそれを悪いことだと思っていない。だからできる。
いや、別に遅刻は犯罪じゃないけど、基本的には同じ構造だと思います。

「時間は貨幣であり、遅刻する人はその貨幣を貯め込もうとする人である」
みたいな話を最後しようと思ったんですけど、
けっこう字数が長くなってきてますし、このへんで終了させていただきます。
続きはまた今度。
ではでは。

遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成
橋本 毅彦 栗山 茂久
三元社
売り上げランキング: 213,403
時間の比較社会学 (岩波現代文庫)
真木 悠介
岩波書店
売り上げランキング: 39,416
広告

0 Responses to “遅刻の自由、時間という貨幣”



  1. コメントする

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中





%d人のブロガーが「いいね」をつけました。