ブッダだらけの国

すっかり女性が強い時代です。

仕事の面でいえば、
採用担当の人に聞くと
「最近は優秀な女性が多いですね。
 男はあんまりいいのがいない。」
といいますし、
「女性の方が仕事を覚えるのは早いですね。
 あと要領のいい人が多い。」
ともいいます。

恋愛の面でいえば、
「最近は女性の方が積極的ですね。
 今の男性はあまり自分からアプローチをしない。
 何かチャンスがあっても、グイグイいかない人が増えてきた」
ともいいます。

これってなんなんだろう。

と、男性側としては思うわけですね。

じゃあ、男性はなんのためにあるのか。
男性は無用の長物か。精子と給料ぐらいしか役割がないのか。
そんなことはないはずなんですが、
でも、男性と女性のあいだに、明らかに非対称な能力差、
っていうものが、実感として生じていて。
その正体ってなんなんだろう、っていうのが、
最近気になってることのひとつなんですね。

で、僕はこれを、ひとつの仮説として、
「男性があまりに高リスクな環境にさらされているのに対し、
 女性は非常に低リスクな環境で生きているからだ」
という風に、とりあえず考えてみています。
なんじゃそりゃ、と思うかもしれませんが、とりあえず聞いてください。

で、昔はこのリスク関係が、
おそらく逆だったと思うんですよ。
男性が低リスクで、女性が高リスクだった。

そして、そのリスク関係の逆転がどのあたりから生じたかっていうと、
おそらく少子化と関係あるんじゃないか、と思ってます。

――――――――――――――――――――――――

少子化ってのは、つまり、子どもを産む人が減少することです。字義通りですね。
子どもを産む人ってのは誰か。女性です。
子どもを育てるのは両親ですが、産む点にかぎれば女性です。

で、出産というのは、これも改めて書くほどのことではないですが、
かなりのコストと時間がかかります。
妊娠中、出産、出産後。かなり長い時間が必要です。

つまり、端的に言っちゃうと、子どもを産むというのはリスキーな行為です。
そのあいだの生活保障とかをきちんとしてくれる人が必要になる。
それが例えば、夫という存在です。

リスキーな行為をなぜ行えていたのか、というと、
たぶん男性を強く縛ることができたから、だと思うんですね。
結婚だとか、社会的通念とか。
男性が容易に別の女性に気移りしないように、
いろいろな手段を用いていた。

もちろん、女性が一方的に縛っていたわけではなく、
女性には女性の義務があったのですが。
家庭にいなさい、とか、内助の功とか、そういうやつ。

で、現代化と同時に、女性も自由を要求するようになった。
そしておそらく、それは最近になって、本格的に実現された。

本格的に実現された結果として、
女性は「自由だし、しかも束縛できる」という、
二重の立場を手にしたわけです。おそらく。

これは、女性からすると、
「働きたいときは働かせてほしいし、
 子育ても手伝ってくれ」
という話になりますが、
男性からすると
「男は相変わらず働かないといけないけど、
 それに加えて家事と子育ての義務がついてくるのかあ」
ということになります。

つまり、「女性は弱いのでハンデをつけましょう」という制度が、
割と女性の自由が実現されたあとでもまだ残っている。
そのことによる矛盾、っていうのが、
もしかしたらあるんじゃないかなあ、と思っています。

――――――――――――――――――――――――

あと、たぶん、女性にとって、
男がいるメリットってのが、(概念上)そんなになくなってきてて。

お金の面でいえば、ぶっちゃけ男性がいなくてもやっていけるわけです。
少なくとも、独り暮らしは余裕でできる。

で、人間関係的な寂しさっていう面でも、
別に男性じゃないとカバーできないわけじゃない。
むしろ女子だけのほうが気楽だったりするしね。

となると、究極的に考えると
「私は子どもがほしいのかどうか」という一点に
集約されていくわけです。あくまで究極的にはね。

で、たぶん、自分一個人としての利益最大化を考えると、
別に子どもって生まなくていいと思うんですよ。
少なくとも時代の雰囲気としては、
産むも産まないも自由、って状態です。

っていうことは、男性というものが、
もはや生活必需品ではないわけです。

それはおそらく男性にとってもそうであって、
たとえば性的な面だけを考えると、
もはやほとんど女性がいらないぐらい、
そういった性的処理設備は充実してきている。とりわけ日本では。

つまり、男女ともに、

「別に付き合わなくてもいいかあ」

という、すさまじい前提が、成立したわけです。ここに。

――――――――――――――――――――――――

積極的にそういった異性を求めない層ってのが、
たぶん一定以上いて。
もちろんマイノリティではあると思うんですけど、
なんか自分の身のまわりにはそこそこいて。

彼ら・彼女らは、そもそも恋愛にやる気がないです。
別にモテる・モテないとは関係がない。
むしろそういう人にかぎってイケメン・美女だったりする。
で、彼ら・彼女らは、恋愛についていろいろ考えた結果、
「恋愛にリソースをさく価値なし」と判断した人々です。

じゃ、なぜそう判断したのか、というと、
2種類の理由が考えられて、
恋愛はハイリスクだから、やらない。もしくは、
恋愛はローリターンだから、やらない。
このどっちかが理由として考えられる。

でも、恋愛にやる気がない層のことを考えてみると、
彼ら・彼女らは「リスクをとりたくない」っていうよりも、
「恋愛?何それおいしいの?」という反応の方が圧倒的に多いな。

あれ?

ってことを考えると、すいません、
俺は最初
「男性が高リスクな環境にさらされているのに対し、
 女性は非常に低リスクな環境で生きているからだ」
という仮説を立てていたんですが、
仮説を大幅に修正する必要があるかもしれない。

つまり、

「女にとって男がいるメリット>>>男にとって女がいるメリット」

なのではないか????

リスクの大小ではなく、リターンの大小が問題なのでは??

いや、つまり、いわゆる恋愛にオクテな層っていうのは、
これまでは、「臆病」だったわけじゃないですか。
告白したい、でもふられたらどうしよう、胸に秘めておこう、的な。

そういうタイプじゃない。
「告白?してもいいけど、それで何か利益あるの?」
という種類の、「恋愛にオクテな層」ってのが誕生してきた。

――――――――――――――――――――――――

つまり、俺は、草食男子的なるものが増えているのは、

「男のプレゼン能力不足」

だと思っていたんですが、
実際には

「女のプレゼン能力不足」

なのかもしれない。

男性にとって、女性がいるメリットがいまいち把握できてない、
だから、そもそもやる気がない。

あるいはなんていうの、
抽象的な意味での「女性」っていうのが、
おそらく価値を持たなくなってきた、というか。
女性である、というだけで、男性から求められる、
という風にはもはやなっていないんじゃないか。

っていうことを考えると、
そもそも「つきあう」ってなんだ、っていう話ですよね。
恋人でなければしない行為というのはありますが、
でも基本的には一緒にどっか行ったり、ごはん食べたりすることですよね。
それは友達と何が違うんだろう?

つまり、「つきあう」ということに、
特別の価値を見いだせていない人がそれなりにいて、
ゆえにわざわざ「恋人」という契約関係を結ぶ意味がわからない、
という、そういうことなんじゃねえのか。

それは別に、男女限らずね。
女性でも「つきあう」の価値がよくわからない、という人はいますし。

もちろん、リスク面はリスク面であるんですよ。
ふられたらそりゃあ傷つくし。
告白して付き合ったあとも、自分の態度がまずかったりして、
幻滅されたらどうしよう、みたいなリスクもあるでしょう。

あるけど、根っこの問題はそこじゃなくて、
実はリターンの話なんじゃねえかなと。
そして、男にとっての「彼女がいるリターン」のほうが、
女にとって「彼氏がいるリターン」より低い、ゆえに、
男性のほうが恋愛に消極的、なのではないか。

「最近の若者にはチャレンジ精神が足らん」みたいなことを言う人は、
たぶん「リスク」にだけ着目していると思うんですよ。

「昔の若者」には「リスク耐性」があったが、
「今の若者」にはそれがない。けしからん。

という、そういう論法。
それが間違っている。

「昔の若者」は「リターン反応性」が高かったが、
「今の若者」はそれが著しく低い。

それは、とらえ方によっては、金とか女とか地位とか、
そういったものによって動かされない、強い心の持ち主です。
なので、むしろ「昔の若者」よりも強い人間です。
ブッダが泣いて喜ぶような人間性です。
しかもそれを、日本の若者の多くが持っている。すごい国ですよ。
めちゃめちゃ希望に満ちている、ともいえる。ブッダだらけの国なんだぜ。

――――――――――――――――――――――――

おそらく、「リターン」の定義が、難しくなってきています。

それはたとえば「年収○億円!!」とか、
「巨乳美女と結婚!」とか、そういう種類のものではないはずです。
それを得たからといって幸せという時代では、もはやなくて。
いや、別にお金はあったほうがいいし、
巨乳美女もまあ嬉しいと思いますけどね。
だからといって、それを追っかけることには、
もはや夢中になれなくなってきている。
目に見えにくい幸せを幸せとカウントするフェーズに入ってきている。

つまり、僕らがやらなくてはならないのは、
ダサい言い方で申し訳ないんですが、
「自分なりの幸せを定義する」ということだと思います。

それはたぶん、思ったよりずっと難しい作業です。
就活生が「自分のやりたいこと」を書くのに日々悩んでいるのは有名ですが。

で、それはそもそもの問いかけの仕方が間違っていて、
「やりたいこと」を聞くというよりは、
「どういう種類の報酬に対して自分は反応するか」を聞いたほうがよい。
もっとダサい言葉でいえば、
「どういうときが楽しいですか」という話をした方がよい。

そして、それを掘り下げられて、「なぜ楽しいんですか」という話ができたら、
割と自然に、「じゃあ何がやりたいんですか」というところは見えてきそうな気がする。
就活生のみなさん、がんばってください。

――――――――――――――――――――――――

ただ、もちろん、自分なりの幸せが定義できたからといって、
じゃあ全部問題解決かというと、そんなこともなくて。

たとえば、自分はこうなれば幸せだと思っているけど、
果たしてそれは本当に幸せなのかどうか。

あるいは、自分が知らない幸せの形が実はまだあって、
そちらを知らずに今「これさえしてれば幸せ」という風に
決定してしまうのはどうなのか。

あと、自分なりの幸せは定義できたけど、
それを実現する方法がまったくもって思いつかない、とか。

そのへんの調整方法については、
今現在考え中というところです。
また何か思いついたら書きます。
でも、とりあえず大事なのは、まず幸せを定義することなんじゃないかと、
そういう風に思っております。今日の結論はそれです。

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