コンフィデンス・トゥ・ライトネス

京都もそこそこ外国人多いんですが、
東京に来るとやっぱりかなり外国人が多くて。
とりわけね、黒人のかたがいるんですよ。
京都ってあんまり黒人見ないんですけれど、
東京は黒人がけっこういる。

とりわけ、原宿と、夜の六本木。
この二か所はね、異常なまでに黒人がいます。
だいたいの数値としては、原宿は平均して10mに1人、
夜の六本木は5mに1人、黒人がいます。
黒人好きのかた、ブラックミュージック好きの方は、
ぜひ行ってみてください。ここはニューヨークか、と思うぐらいいますから。

あと昨日行った、代官山のクラブにも黒人が割と多かった。
クラブはやっぱり外国人が多いですね。
すごいニューヨーク感がある。

さっきからニューヨークニューヨークと言ってますが、
これは最近ニューヨークに行ってみたい欲があるためであって、
今日は別にニューヨークの話をするわけではありません。行ったことないし。

――――――――――

外国人、とりわけ白人や黒人の人を見ていて思うのは、
まあまず、「カッチョええなあ」ということなんですけど、
次に思うのが、「堂々としてるなあ」ということです。

なんというか、目の勢いとか、立ちふるまいが違っていて、
「俺は間違いなく正しい」という自信にあふれてる感じがある。
あまりにも堂々としている。うらやましいぐらいに。

あれはなんなんだろう、
なぜ彼らは堂々とできるのだろう。

もちろん、外国の人でも、自信がない人はいると思いますし、
そういう人はそういう人で、ちょっと立ち居振る舞いが違う感じはします。
何国人だからこういう性格だ、なんて、乱暴なことは言えません。
が、海外の人は軒並み、かなりの高確率で堂々としてる感じがする。

堂々としてる理由ってのは、考えてみたんですけど、あんまりわからなくて。
たとえば一神教がその理由か、っていうと、
じゃあインド人はどうなんだ、彼らもかなり堂々としてるぞ、ってことになりますしね。
あと、お隣の韓国や中国の人も、やっぱり比較的堂々としてる人が多いな、
と思いますから、そう考えると、あんまり民族的な理由でもないのかもしれない。

あとまあ、日本人で堂々としてない人がいないわけじゃなくて、
もちろんたくさんいますし、自分のまわりには割と多いと思います。
特に芸術活動をしてる人だと、やっぱり堂々としてる人が多い。

あと、会社組織の上の方の人、とかも、
堂々としてる割合はかなり高いですね。

――――――――――

で、そういった堂々としている姿は、
すごくいいなあ、と思うんですよ。
俺も堂々としたいと思います。
案外、外からはそう見えているかもしれないけど、実は全然堂々としてない。

で、たぶん、堂々としていることのメリットっていろいろあって、
やっぱり、まず、自分の思想に殉ずることができる、
これがすごくいいと思う。

思想に殉ずるというと大げさですが、
要するにやりたいことができる、ということです。
もちろん、外部環境がありますから、やりたいことがそのまま実現できる、
ってわけではないでしょうが、
少なくとも内部的な問題がすでに解決されている。
これはでかいですよ。
後は具体的な方法論さえ修正していけば、
実現できるわけですから。
初志貫徹ができる。これはものすごいメリットです。

「俺の思想をそのまま形にしました!」みたいなプロダクト・プロジェクトが
アメリカで出やすいのも、なんかそのへんの初志貫徹度合いと、
あとは国自体のインフラ的な部分によるような気がするんですよね。

――――――――――

ほかのメリットとしては、
うだうだ悩む時間が減るとか、
他人と話しても話が速いとか、
話に説得力が出るとか、まあいろいろ、あります。

じゃあ、デメリットってなんだろう。
というと、これがまさに微妙なところで、
もしかしたらデメリットじゃないかもしれないし、
まさにメリットと表裏一体なのですが。

「他人の話が聞けない」という点です。

というと、「いや、んなこたないよ」と。
俺は堂々としてるし、意志力強いけど、
人の話も聞くよ、と。そういう人もいるかと思います。

けど、なんていうの、もちろん他人の話は聞くと思うんですけど、
根本的なところで他者の意見に対してオープンなのかどうか、
という問題点が、もしかしたらあるんじゃないかと。

いや、じゃあ堂々としてない人物、たとえば俺が、
他者の意見に対してオープンなのか、というと、
別にそうともかぎらないので、堂々としている=他人の話を聞かない、
ではないのかもしれません。
また別の問題のような気もします。

ただ、たとえば俺の考えは正しいのだ、これで行く!ってなった時に、
本当に正しいのかどうか疑う機構、疑う装置、というのが、
なにかしら必要だと思っていて。
たとえば俺が自信ある、堂々とした人間になったときに、
その装置をつけないままに路上に出てしまうことに、
若干の不安があるわけですね。だから自動車に乗らない。

比喩がすぎましたが、
堂々としながら他者の意見にオープンでいられる方法、
というのがなんかないかな、という話です。要するに。

他者の意見というのも2種類あって、
「やり方に関する意見」と「そもそもの方向に関する意見」があります。

たとえば、俺は現状そう思っていないんですが、
「起業したい!」と思っていたとします。
よっしゃ、俺もザッカ―バーグになるぞ、と。
で、そういうときに、
「やめなよ起業なんて、大変だよ」という声と、
「やめなよ、そんな甘い考えじゃ売れないよ」という声があるとします。

前者が「そもそもの方向に関する意見」で、
後者が「やり方に関する意見」です。

何が違うのか?という感じはしますが、
そもそも起業することを否定する、という方法と、
起業して生計を立てる方法に関して批判する、という違いです。

で、こういうときに、どの意見を聞くべきなのか、という問題があります。
基本的には、「方向」に関する意見は、つっぱねて、
「やり方」に関する意見は、すなおに受け入れたほうがいいんだと思います。
そこの判別が難しいとは思うんですが。

そして、「やり方」に関する意見についても、これまた2種類あって、
「本当に役立つ意見」と「ヤジ」です。
これをどう見分けるかが本当に難しい。

つまり、俺の価値基準からすると、
「そんなバカなことをやって売れるわけがない」という提案でも、
実際には効果がある可能性があるわけじゃないですか。

あるいは、俺の価値基準に照らし合わせて、
なるほどマトモそうな戦略だ、それでいこう、ってなっても、
それが成功するとは限らないじゃないですか。

あー、これはちょっと例えが悪い。
「じゃあビジネスの専門家を連れてくればいいじゃない」
という反応がありそうなので。

そうじゃなく、「なんだかよくわからないけど役立つかもしれないもの」を、
果たして意志力の強い人は受け入れられるのか、という話です。
あるいは、「俺にはよくわからないけどやっておいた方がいいと言われること」を、
意志力の強い人は果たしてできるんだろうか、という話です。

――――――――――

たとえば、「学校に行く」ということがあるじゃないですか。
で、そういったものっていうのは、
「とりあえずやっておいた方がいいと言われるもの」です。
ミュージシャンになりたいから大学には行かずに、
高校中退で音楽活動始めますわー、という意志の強い人がいたとして、
その人の価値判断は正しいのかどうか?

たとえばなってはみたものの、あまり鳴かず飛ばずだったり、
あるいは途中でやる気がなくなったりしたときに、
リスク的にそれはどうなのよ?というのがある。

もうちょっと分かりやすいところで言おう。

社会人になると、多くの先輩方から
「若いうちに本は読んどいたほうがいい」
「若いうちに英語は勉強しといたほうがいい」
というようなことを言われます。

ただ、もし現状、そういうことを勉強したくないとして、
俺が意志力の強い人だったら、やらないじゃないですか。
で、あとあと困る可能性がある。
そのせいでロスが発生する可能性がある。

こういう「今の俺にはまったく価値が理解できないが、
やった方がいいと言われるものをとりあえずやっておこう、と思えるかどうか」問題。
これが意志力の強い人においては発生するんじゃあないか。

――――――――――

長くなってきたし、深夜で眠たいので、続きは次回!!

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