ユー・アー・パンク

ひさびさにだらだらと、
もんにょりした話を書こうと思います。

東京に引っ越してきたばかりの頃、
ひとつ心に決めていたことがありまして。

それは、「やったことのないものはやってみよう」というものです。

関西から東京へ、学生から会社員へ、と、
まったく新しい環境に移動したので、
その新しい環境で、最初から何が良いかなんて判断できない。
ならば、まずは経験、経験して東京を理解しよう、
という、そういうムーブメントが、一時期ありました。

僕はこの実験精神みたいなものをけっこう大事にしていたのですが、
ふりかえって最近、自分の行動を見てみると、
まああんまり実験をしてないんですよね。

小規模な実験とかはやっているけれど、
実験精神に満ち溢れているか、っていうとそうでもなくて。
いつの間にか代わり映えのしない日常を送っちゃってるんじゃないのかい、
ということを思わずにはいられない。

さあどうしよう。というのが今回のテーマです。

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「まだ存在してないもの」について論ずるのって、
すごく難しいなあと思うわけですよ。

あるいは、「自分には理解できないもの」についてフェアに語るのも、
これも相当難しい作業でして。

そういうものになると、みんな口を濁して
「やってみないとわからないよねー」ということしか言えなくなってしまう。

けど、「やってみないとわからないよねー」で「じゃあ、やってみよう」ってことには、
おそらくほとんどの人が、ならないのではないか。
「やってみないとわからないよねー」は、「わからないならいいや」にしか、
つながらないのではないか。
とりわけ、検索すればだいたいのことがわかる時代に、
「わからない」ものってのは、めちゃめちゃ嫌われやすいのではないか。

だとすれば、「やってみないとわからないよねー」を超えた、
その一歩先の言説のようなものが必要なんじゃないか。
ということを日々感じながら生きているわけです。

いや、本当に、こういうことを割と考えています。
1年ぐらいこの問題を考えています。
薄く考えている時期を含めると6年ぐらいは考えていると思う。

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本当の意味で「やってみないとわからない」こと、
ってのはたぶん、ほとんど地球上には残ってなくて、
それこそ最先端の物理学研究所ぐらいにしかないと思うんです。

だいたいの場合、すでにそれに似たことは誰かがやっていて、
で、その結果どういうことになったか、っていうのは、調べればわかります。

で、たとえば、「社会的に適切とされる行動」というものがありますよね。
いわゆる「本当はこうしたほうがいいとわかっちゃいるんだけどなあ」というやつです。
で、この「わかっちゃいるんだけどなあ状態」というのは、
当たり前ですけど、実際わかっちゃいないわけで、
内容は理解しているけど、内容に疑いを持っている状態です。

という風に考えると、これは「社会的に正しいとされること」に対して
「疑いを持っている状態」なので、ある意味とてもパンクです。ジョン・ライドンです。
わかってるけど行動しないやつってのは、パンク野郎です。

しかし、パンク野郎と頑固オヤジってのは紙一重なところがあるので、
頑固オヤジになってはいけない。もしくはババア。
パンク野郎というのは、あくまで柔軟でなくてはいけない。
「既存の権威をすべて否定する」というのと「俺が権威だ」というのはたぶん別です。

すると、じゃあ、「世間一般的に正しいとされることに対して疑いを持った」、
で、どうするか。

そこにはおそらく2つの方向しかなくて、

1.あえて「世間一般に正しいとされること」に染まる
2.徹底的に疑って独自の理論を発達させる

のどちらかです。

ほとんどの場合、「わかっちゃいるんだけどなあ」という人がとる行動は、
「それが正しいんだかどうだかわからないから、
 時々それに従ってみたり従ってみなかったり」
というものです。

これで情報が得られることはあんまりない。
「そちらの世界に染まっていない人の論理」でしかものを考えられないので、
必然的に「そちらの世界でよいとされていること」を悪く見てしまいがちなため。

「やってみないとわからない」問題にはこの種の問題も含まれていて、
すなわち、「行動それ自体の意味がわからない」というのと、
「その行動をとる人々の価値観がわからない」という問題があってですね。

つまり、ある種の行動をとり続けることで、
その行動の価値判断をする自分自身の価値観が変わる、悪く言えば変えられてしまう、
という問題があって、これもすごくでかい問題なんですよ。
すごくでかい。とてもおもしろい。

そういう性質の行動になってくると、どういうことが起きるかというと、
「その行動自体の価値」を「その行動をする以前」の価値観から判断する、
ということが、できなくなってくるわけですね。超おもしろい。

話が抽象的だったので具体的に言いますと、
たとえばイスラム教に入信して、毎日5回お祈りをする生活を続けたとする、
そうして、「毎日神にお祈りするって意外といいもんだよ」という判断に至ったとする、
それはその人にとっては全くもってまっとうな判断なんだけど、
その判断は、「イスラム教に入信したあと」の判断じゃないですか。
なので、その「毎日神にお祈りするって意外といいもんだよ」という意見を、
たとえば無神論の人に聞かせると、「あ、こいつヤバいやつだ」という認識になってしまう。
2人のあいだにコミュニケーションが成立しなくなってしまう。これがすごくでかい。

そして、もしこの2人のあいだにまっとうなコミュニケーションを成立させることができたら、
それはまさしくノーベル賞に値する発明になると思います。
俺はこういうことをずっと考えている。何年も考えている。

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「まっとうなコミュニケーション」をするためには、
共通言語が必要です。
通訳者を呼ぶにしても、通訳の土台となる共通言語が必要です。

で、この共通言語ってのは要するに「共通の認識」のことで、
その「最低限共有できる共通の認識」を見つける作業ってのが、
まずは必要になってくるんだろうなあ、と思います。

そして、「共通の認識」ってのはたぶん、
「感覚」ではなくて「論理」なんじゃねえかなあ、ということを思っているんですが、
でも論理すらも結局は感覚だったりするしなあ、と思うと、ちょっと無理がある。

となると「目的」なんじゃないでしょうか。結局は。

たとえば、就活の時期なんだけど、ぜんぜんエントリーとかしてないし、
あんまり対策もしてない、わかっちゃいるんだけどできないのよ、という場合、
とりあえずの目標として「就職する」というゴールがあるわけです。
そのゴールは、ガミガミ言ってくるオカンやオトンも共通のはずです。

そのゴールに向かうための方法として「これがベストだ」「あれがベストだ」と
言っているだけなので、要するに方法の問題でしかない。
と考えると、なんかもうちょっと別の見方ができるんじゃないかと思う。

究極考えつめていくと、「就職する」というのがゴールではない、
という結論になる可能性は大いにあるんですが。

ゴールが共有できない場合って、共通言語ってなんなんでしょうね。
あるいは、それでも共有できるゴールを見つけるのがよいのか。

まあ、「わかっちゃいるんだけどなあ」という状態は、
ただストレスがたまる割に何も進まないので、
なるだけ早く解決するのが良いよなあ、というのは常々思うことです。

目的がそこまでズレることってそんなにないので、
ナイーブな考えかもしれませんが、考えれば答えは出ると思うんだよなあ。

あるいは、本当に世間一般に言うとおり、
「とりあえず言うとおりやってみろ」という手段なのか。
こっちのほうが圧倒的に楽なのよね、たしかに。

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