作りたい音楽を改めて考える

最近、ずっと方向性が決まっていないのが、
ドラムンベース(含むハウスミュージック)と中東打楽器、今後どちらに重きを置くか、
自分はどちらの人になりたいのか、ということ。

今のところ、どちらもぼちぼちやりつつ、でもどちらにもちゃんと本腰が入っていない状態でもあって、
なんだかすごく微妙な状態になってしまっている。ので、ここらで考え直したい。

音楽についていえば、俺が作りたいと思う音楽は以下のようなものだ。

・踊れる
・グルーヴィー
・リズムが良い
・インスト
・悲しげ
・暗い

で、そうなんだよ、イラン音楽とかアラブ音楽などの伝統音楽は、
ここから外れてしまうんだよな。聴きたいものと作りたいものは別の話だ。
かつて好きだったプログレッシブロックとかも、グルーヴィーという点からは外れてしまうから、
作りたいものじゃないんだよな。
ロックは基本的に僕にとってグルーヴィーじゃない。メッセージ性が強すぎる。

かつてメッセージ性のある音楽をよく聴いていた僕が、
なぜメッセージ性にまったく関心がないどころか、
むしろ興味すらなくなってしまったのか、というと、
音楽を通じて伝えられるメッセージなんて微々たるものだからだ。という風に思ったからだ。

メッセージは自由に個々が感じ取るものだし、
どうしてもメッセージを伝えたいのであれば、そんなのは最初から文章にすればいいじゃないか。

ミヒャエル・エンデがこういうことを書いている。

“小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べること
であるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか?”

これの結論は、「カフカはそのことを知らなかったから」「バカだったから」では
決してないだろう。もちろんそう答えてもいいけれど。

音楽を通じてなにか別のものを伝えたいのであれば、そっちをメインにすべきだ。
メッセージを伝える手段はなにも音楽だけじゃないだろう。

音楽を作るのであれば、伝えたいものは、やっぱりその音楽そのものだし、
その中にあるほんのちょっとした音さえも、その人が伝えたいものだろう。

※注意してほしいのは、なにもメッセージ性のある音楽を批判しているわけではなく、
 メッセージを伝えるのであれば音楽にこだわる必要はないんじゃないかなということである。
 実際自分は歌詞の意味が深い音楽とか好きですし、歌詞を解釈するのも好きです。

で、音自体を伝えようと思ったときに、
僕はなぜか、「踊れる」ということが大事だと思った。
別にこれが理由じゃないけど、「踊る」というのは、音楽にしかできないことのひとつだ。
絵画を見て踊ることはできない。本を読んで踊ることはできない。
映画を見て踊る…人もいるけれど(インド映画とか)、それはあくまで音とセットになっているからの話だ。
音楽がなくても人は踊れるけれど、それはちゃんとダンスの訓練を積んだ人の話であって、
一般の人は、音楽がないと踊れない。

というか、実際に踊るかどうかが重要なんじゃなくて、
まさしくそういう「ノリ」みたいなものを心に芽生えさせるのは、
これはもう音楽だけなんじゃないかと思う。グルーヴは音楽の特権だ。

その逆の「心の平穏」みたいなものも、これまた音楽の特権なんじゃないかと思うけれど。
逆に「音楽」は「じっくり考えてもらう」ことができない。これは本の特権だと思う。
絵画とかはよく知らないので特権を思いつくことができない。すまない。

ともかく、僕の音楽の核として「グルーヴィーであること」(ノリがいいこと)というのがあって、
それを実現できる音楽であれば、ドラムンベースでもハウスでも中東音楽でも南米音楽でもいいのかなと思う。
そうだな。
「ノレる音楽」というところだけはっきりと目標として持っておこう。

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