ウェーバーを読まずに官僚制について考える

なんかの記事か本で読んだんだが、
「高度に発達したあらゆる組織は官僚化せざるをえない」という考え方がある。
マックス・ウェーバーの考え方らしい。

組織が高度に発達し、ものすごく複雑になってくると、
だんだん一人のトップでは把握しきれないようになってくる。
そういうときに、個々の業務内容ごとにリーダーを立て、詳しい内容はそのリーダーに任せて、
そのリーダーを統括する立場としてトップが立つ、という風になってくる。

このように、「業務内容の範囲を分割し、その人にその分野のことは任せる」
というのが、俺は「官僚制」だと思っている。

そこまでだと別になんの変哲もない。
職務を分けるだけだから、そんなことを言ったら野球だって官僚制だ。
けど、基本的にはこれが「官僚制」のベースとなるものだと思う。
そのシステム自体には善悪はない。運用する過程で問題が出てくるのだ。

メリットは当然ある。
トップはいわゆる「マネジメント」的なものに集中できるし、
任命された各リーダー、あるいはそのリーダーの下の各メンバーは、
「任された業務内容」に集中するため、早い段階で専門性を身につけることができる。
また、業務がきっちり分かれているほど、
各人は「今自分は何の業務をすべきか」について考える必要がなく、
目の前の与えられた仕事に集中することができる。

たとえば、経理の人が「売り上げがヤバいからちょっと営業に行ってこよう」
なんて発想をしていたら、それはだいぶ面白い会社だが、非効率であることは間違いない。
基本的には「得意な人に得意なことをさせる」のがもっとも効率的である。

範囲が複雑になるほど、分業は必然的に避けられない。
アダム・スミスも分業をよしとしている。

けど、じゃあ、そっからどうなるのか、いいことばっかりなのか、
というと、ご存知のようにそういうわけではない。

一般に僕らが「官僚制」と聞いてイメージするのは以下のようなことだ。

・自分の業務範囲以外のことはやりたがらない
・いわゆるお役所対応、ルールに縛られた対応
・上から言われたことをただやるだけ
・新しいことをやらない(クリエイティビティに欠ける)
・組織外のことよりも、組織内への見え方をまず考えている
 (ちなみに、「組織内のこと」ではなくあえて「見え方」と書いている)

なぜこれらは起きるのだろうか?
なぜメンバーは何かを踏み越えることを恐れているのだろうか?

ウェーバーを読めばたぶん書いてあるのだろうが、
あえて読まずに考えてみよう。(数日後には読むと思いますが)

さっき、僕は「分業」だけを取り上げて「官僚制」だと書いていたが、
「官僚制」にはおそらくもう一つ必要なものがある。
それは「規則」だ。

そもそも考えてみれば、「分業」といったって、
個々人が好きなことをするわけではない。
全体の目的があって、それを効率よく達成するための分業なので、
全体の目的、およびそれを遂行するために各人に求められている内容、
というものが決まっていないといけない。

それだけだと別に規則は必要ないような気もする。
各人がいい感じにいい感じのことをやってくれればいいよ、ということもできる。
(実際にほぼそういう形の組織もあるだろう)

けど、当然ながら、各人の能力にはばらつきがあるし、
その時々のパフォーマンスにもばらつきがある。

こっから急に違う話が入ってくるのだけど、
工業社会においては、クォリティを一定に保たねばならない。
仕事は、この機械をこの通りに操作すればこういう製品ができますよ、
というものでなければならない。
なぜか。
予測が立つからである。
なぜ予測を立てねばならないのか、というと、
マネジメントのためである。
予測がついた方が管理しやすい。当たり前のことである。

そうしてリスクを減らすために、ルールが増えていく。
また、各メンバーにとっても、ルールがある方が、それに沿って仕事がしやすいし、
ルールに沿って仕事をしている限りは、特に何の文句も言われないですむ。
そこで「個人の責任」はどこかへ消失させることができる。ミスがあれば別だけど。

いや、実はルールである必要すらないのかもしれない。
要するに、上から言われたことを、何も文句を言わずきちっと行うべきである、という、
「規範的な価値観」というのが、規則の最たるものかもしれない。
それがなければ、規則なんてものはあっても無意味だし。

そして、そのような状態が長く続くと、
メンバーは「命令された以外のこと」をやりたがらないようになってくる。
命令された以外のことに踏み出して、それが成功すれば万々歳だが、失敗すれば評価が下がるだけである。
また、そもそも「命令されたこと」でいっぱいいっぱいであれば、
「命令された以外のこと」をやろうなんて意欲はなくなってくる。

そこからこのような態度が生まれてくる。

・自分の業務範囲以外のことはやりたがらない
・いわゆるお役所対応、ルールに縛られた対応
・上から言われたことをただやるだけ
・新しいことをやらない(クリエイティビティに欠ける)
・組織外のことよりも、組織内への見え方をまず考えている

もちろん、組織の風土や、メンバーの意識にもよるところはある。
組織が、新しい挑戦を受け入れる環境であったり、あるいはメンバーが組織の目的を把握しており、
その目的のために必要だが今不足していることを説得できたりするのであれば、
こういうことは起こらないと思う。

それはつまるところ、コミュニケーションである。
私の嫌いな言葉の1位と2位は「努力」と「コミュニケーション力」なのだけど、
やっぱりコミュニケーションである。
言い方を変えると、認識のすり合わせである。
認識が根本的に違うと、そもそも会話が成り立たない。
「大事なもの」がメンバーによってズレている状況では、組織として動けない。

そして、官僚化によって、ほぼ必然的に、「大事なもの」はズレてくる。
たとえばある人はお客様へのスピードを最優先するだろうが、
ある人は社内への負担の軽さと品質の高さを優先するかもしれない。
ある人はその技術者以外には訳が分からない技術的な事情を優先するかもしれない。

そこでコミュニケーションをとれるかどうか。
また、そもそもコミュニケーションをとろうとできるかどうか。
「言っても無駄」という空気があれば、実際には「言っても無駄」ではなくても、誰も何も言わなくなる。
誰もが改善したいと思っていても、その空気が、発言を封じる。

発言を封じる要素はいろいろある。
たとえば、中間管理職の人が、下から何か不満と改善要望を言われたとして、
それを上に説明するのは相当めんどうである。
管理職の人は、別にその不満によってなんら影響を被っていないので、
それを必死で上に説得するモチベーションがわかない。

また、昇進というものは、一般に下からの評価ではなく上からの評価によって決まるので、
基本的には「こういう問題があります」というより「うちのチームは問題ありません」と言う方を好んでしまう。
(下からの評価によって昇進が決まる組織があっても面白いかもしれない。)

かといって、下の人が、中間管理職を飛び越えていきなり上にもの申すのも、
それはなかなか身分制社会においてはしづらい行動である。逆に言うとできたら面白いのかもしれないけど。

この文章を書いていく前は、
「どうやったら官僚主義を防げるのだろうか、官僚制に変わる手段はあるのだろうか」と思っていた。
しかし、おそらく官僚制に変わる手段はなく(いや、ないのか?少なくとも組織においてはないと思う)、
必然的に我々はチーム制、上意下達の命令制をとっていかねばならないのだと思うけど、
それと「官僚主義」はイコールではない。ニアリーイコールかもしれないが。

あるのは「官僚制において官僚主義を防ぐ手段」のみで、
それを各メンバー、各リーダーが運用できるかどうかなのだと思う。
その詳細はまた別途書いたほうがよいと思う。

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