代替可能であるということ

「お前の代わりなんていくらでもいるんだ」と言われて、
いい気分になる人はまあいないだろう。

最近、「代替可能であること」について考えている。
きっかけは例によって仕事である。

過去にやった仕事を振り返ってみていて、
「私はどういう仕事が楽しかったんだろう?」ということを考えてみた。

すると、それは例えば「お客さんに喜んでもらえた仕事」とか
「利益率が高い仕事」ではなく、「ちょっと一味違う、難しい仕事」であると感じた。
ややこしい案件のほうがはっきり言って楽しい。ややこしければややこしいほど。

それはなんでなんだろう?というと、
最初は「自分が成長できるから」とか「達成感があるから」などと考えていたんですが、
「自分にしかできないから」という要素が大きいのではないかと思えてきた。

もちろん、実際には自分にしかできないということはなくて、
たぶん先輩や他の同僚でも全然出来る案件なのだけど、
そこに何かしら、自分ならではの痕跡、自分ならではの爪痕というのを
残せる部分が少しでもあると、やった後の満足感が高い。

平たく言えばオリジナリティである。
オリジナリティを出せる仕事というのは楽しい。
(というと、どんな仕事だってオリジナリティは出せる!甘えるな!
 という声もあるかと思うのですが、それは一旦置いておきます)

そして、多くの新卒が志向する仕事というのも、
だいたいがまあそんな仕事である。
「自分の強みを活かせる仕事」かつ「自分のやりたい仕事」、
それはつまり自分のオリジナリティが出せる仕事ってことだ。
自分にしかできない仕事ってことだ。

結論から言うと、
個人は、代替不可能になりたがる。
けど、組織としては、代替可能な方がありがたい。
この矛盾をどう解決していくべきかを考えている。

僕が今のチームに移って素敵だなと思ったのが、
個々人が代替不可能な存在として働いているということだ。

以前のチームでは、正直ほぼすべての人が代替可能な存在だった。
誰かが死んでもほとんど困らなかった。
それは組織としては理想的な状態なのかもしれないが、
そこで働く個々人にとってはあまり気持ちのよい状態じゃなかったと思う。

ある人は、その代替可能性から逃れるために、
仕事が終わったらさっさと帰っていたし、
ある人は逆に、代替不可能であることを証明するために、
長時間残業をしていたようにも思う。
いや、内心はわからないから、あくまで僕の想像なのだけど。

今のチームでは、個々人が代替不可能でありながらも、
適度にみんな休みをとっている。割と有給とかバンバン使う。
それが僕は不思議でならなかった。

でも、今にして思うと、逆説的な話で、
代替不可能であると思えるからこそ、有給を使えるんじゃないかな。
有給を使ったら、代替可能な存在であると認めてしまうことにつながるから。

あるいは、その「代替可能/代替不可能」というレベルを超えているのかもしれない。
というかたぶんそっちの方が正しいだろう。
そういうアイデンティティにこだわるような性格ではないと思う。

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飢えている人に、魚をあげるか、魚の釣り方を教えるか、という話がある。

自分が代替不可能であることを志向しすぎる人は、
たぶん、魚の釣り方を教えてあげないと思う。

教えてしまったら、その人が魚を釣れるようになるんだから、
自分なんていらないじゃないか。そんなのは嫌だ。
だから、多少面倒でも、魚をあげることを続けよう。そういう考え方をする人もいる。

そうすると、部下は育たない。
いつまでもプレイングマネージャーが長時間残業することになる。
おめでとう。君は代替不可能な人材だ。

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代替可能であることは個人にとって悪ではない。
というのも、例えば仕事の面において、その人がいないと完全に仕事がどうにもならない、
というのであれば、その人は休めない。体調を悪くすることもできない。

「私が休んでも代わりはいるもの」という状態であれば、
気兼ねなく休むこともできる。好きなライブにだって行ける。
残業を減らすことだってできる。

実際、すべての仕事がすべての人にとっていつでも実行可能であれば、
きっと、長時間労働と無職の両極端しかない日本の現状は変わると思う。
「その人しかできない仕事」が多すぎるから、誰も帰れない。

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浮気がなぜ罪かというと、
その人の恋人(あるいは配偶者)が代替可能であることを示しているからだ。

自分にとって相手が唯一無二の存在であり、
相手にとってもまた自分が唯一無二の存在である。
そのような甘い関係で恋人関係・夫婦関係というのはできている。

だが、浮気をするということは、
要するにその人の欲望が他人でも満たせるということであり、
それってつまりあたしが唯一無二の存在じゃなくなることじゃないの?
ふざけるなよお前!というのが浮気とその憤怒の正体である、と思っている。

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僕は旅行やイベントのときに写真を撮るのがあまり好きではない。
それはなんでなんだろう?と考えていたのだけど、
これも代替可能性というキーワードで解けるかもしれない。

旅行やイベントというのは一回性のものだ。
旅行はGoogleストリートビューとは違う。
「今自分がその瞬間にそこにいる」ということに価値がある。
それを写真で複製してしまうことで、現実が二つ誕生してしまうため、
一回性が失われ、体験が代替可能なものになってしまう。
それを恐れて写真を撮りたがらないのだと思う。

もちろん、写真を否定しているわけではない。
素晴らしい写真は別の現実を作り出す。
それはむしろ私たちに見えなかったものを見せてくれる。いい写真はいい。

あるいは、単なる記念写真であっても、いい写真はいい。
劣化しない状態で現実を保存してくれるのであれば、
それはそれで後世に残しておくべきものだ。

要するに、なんでもかんでも写真で残そうとするのは、
それはあまりファッショナブルじゃないということだ。

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たぶん中世の人間はこんなことを考えなかっただろう。たぶんだけど。

代替不可能な人間で構成された社会の方が、僕は望ましいと思う。
誰が死んでも困らないなんていうのは、『はてしない物語』のイスカールナリみたいなもんで、
そこには個人という概念がない。僕たちはあいにく、個人という概念に目覚めてしまったのだから、
みんなが代替不可能であることを志向しなければならない。

代替不可能な人間で構成されていながらも、
その人間が欠けたら欠けたで、何かバックアップを行うことができる社会。
それが一番素晴らしいだろう。
歌舞伎役者が死んだら次の代へ襲名される。
その人の演技は確実に先代とは違うはずだ。でもクオリティは保っている。
それでいいだろう。クローンになんてならなくていい。永遠に同じサービスなんて求めてはいけない。

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