開かれた社会とその敵(ふたたび)

友人が「価値観によってその人の生き方が決まる(あるいは決まってしまう)社会が到来する」
みたいな話を書いていたのでそれに影響されて書いてみます。

なんというのかな。
プル型・プッシュ型という区分が便利なのでそれを使ってしまいがちなんだけど、
プッシュ型=メディア自身が「こういうコンテンツどうよ!」とプッシュしてくるタイプ
プル型=メディアが「なんでもあるよ!」と言い、消費者に選んでもらうタイプ
という意味合いで僕はとらえています。

たとえるとYahoo!のようなトップページにいろいろあるのが(比較的)プッシュ型、
Googleが(日々変わるロゴマークを除けば)プル型だと思っています。

ツイッターやFacebookはどうなんだろう?というと、
あるところまでもともとプル型だが、途中からプッシュ型に変質するものだと思います。
もちろんその個々人の使い方によってどちらにもなれるので、その点がすごいと思いますが。
「この人が発する情報を受け取ろう」というところについてはプル型=自身で選択なんですが、
「その人が具体的にどういう情報を流してくるか」というところについてはプッシュ型=自身で選択しなくてよいんですね。

で、いずれフォロー数が一定数を超えてくると「もういいかな」という気分になり、
自分からわざわざ新しいものをフォローしなくなるというのが、
イメージなんですけど大半の人の行動なのかなと思っていて。
それは悪いことなのか?というと別に善悪ではないです。

プル型のメディアのめんどくさいところは「自分で選択しなきゃならない」ってことですよね。
で、わざわざ選択するほど我々は情報に飢えているわけではないし、あとそもそもめんどいので、
ほっておくとプッシュ型になるというのが自然の摂理だと思うのです。

情報が増える、選択肢が増えるということは、それだけ選ぶ機会が増えるということで、
その世界の両極端は「自由」と「面倒くささ」に分かれています。

で、情報が増える、選択肢が増えるということは、僕は間違いなくいいことだと思っています、
いいことだと思っているんですが、それはたぶん「選択を面倒くさがらない人が相対的に生きやすくなる」
社会だと思うんですね。そしてそのこと自体は誰も選ぶことができない。
ここ重要なのでもう1度書きますが、「そのこと自体は誰も選ぶことができない」のです。
否応なしに選択肢は増えていく。強制的に選択を選択させられる。

もちろん一方では別の道もあります。それは「選択しないということを選択する」社会です。
言われたことだけをやるとか、慣習に従うとか、みんながやっているからそうするとか、そういった社会です。
そういった社会に生きるのは、選択することが苦手な人にとっては生きやすい社会でしょうが、
たとえばそういった社会が「選択を好む人たちによって構成された社会」と戦ったとして、
果たして生き残れるのかというとこれははなはだ疑問でもあります。

たとえば「うちはこのランク以上の大学を出た日本人の新卒しか取らないよ」という会社と
「中卒だろうが院卒だろうが世界中から最高ランクの技術者を集めてこい」という会社が戦ったとして、
それは果たして同じフィールドで戦っていけるのか?というとまあもう敗戦確定なわけです。
敗戦しないためには「選択しないということを選択する」社会が「閉じている」必要がありますが(=そういった競合が参入しないようにする)、
そのような「閉じた」社会に戻ることはもう実質的に不可能なんじゃないかと。

いや、そういった国家もありえるかもしれません。
たとえば中国はそういった存在になることができるでしょう。
国内市場も十分大きいし、情報遮断も慣れていますから、社会を「閉じる」ことは十分可能です。
日本もがんばればそういった「閉じた」社会へと変質することができるかもしれない。
このために必要なのは「ある程度の人口とある程度の豊かさ」ですし、政治は基本おまかせモードなので。

まあ自虐はその辺でやめておくとしても、「開かれた」社会として最新の便利さを享受するためには、
同時に「選択することを強制的に選択させられる」社会にならなければならない。
けどそのような「選択」の文化は日本にさほど根づいていない。
じゃあどうするか?というところが、割と大きな問題になってくると思っています。

具体的には、たとえば日本でいま支配的なモードが「みんながしているようにする」だったとして、
でもその「みんな」自体が何を正としていいかよくわかんない、となったら、
強烈な扇動者によって支配されるか、確固たるシステムの意見にしぶしぶ同意するか、
あるいはコロコロといろんな方向に転向しまくる、そのいずれかになってしまいがちですよね。
それはとても危険な社会になると思う。

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でもそもそも「選択」というのは白紙状態でするものなのか?
アメリカ人は生まれながらにして「機内食はビーフ!テレビはNBC!野球チームはヤンキース!」
と次々に選択できるのか?というとまあそんなことはないわけでして、
何かしら生まれた社会の影響というのは受けるわけです。特に子供のころは。
そもそも言語自体が絶対的にプッシュ型なわけで、
「俺アラビア文字好きだからアラビア語にします」という選択はできないです。

その意味ではみんなプッシュ型からスタートするのですが、それがどの時点でプル型に変化するのか。
あるいはプル型に変化したという幻想を持っているだけで、
実はみんなプッシュ型によってできあがった価値観をもとにして「選択」しているだけなのか?
どうなんだ?んん?というのはとても気になりますね。

実はこのへんの検証は行動経済学の人々によってかなり進められていて、
ダニエル・カーネマンとかエイモス・トベルスキーとかダン・アリエリーを何冊か読めばわかるように、
人間の選択というのはいい加減で、不合理で、要するにカスだということはある程呈示されている。
なので「選択できる」社会というのも実はそこまで無制限にハッピーなものではないのかもしれない。
というか「選択できる」と思っているだけかもしれない。
たとえばAppleやらGoogleやらAirbnbやらがそこまで社会的に成功しなかったとして、
我々は「『自らの価値観に従って生きる』という考え方はすばらしい」という価値観を持つことができたのだろうか?
伝統的な価値観の中に居続けた可能性はないか?

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話が拡散しすぎたので、そろそろ収束させていくと、

・選択肢が増える社会においては、「選択することが好き」な人が相対的に有利になっていく

・そのこと自体は「選択することが嫌い」な人も「選択する」ことができない。
 もしその影響をシャットアウトしようとすれば、社会を「閉じる」しかない。

・しかし、「選択すること」を無条件に信じてよいわけではなく、
 実際には既にできあがった価値観にもとづいて「選択」らしきものを繰り返しているだけかもしれない

ということです。
だとすると我々はどのように「選択」していくべきか?

最新の利便性を享受したいのであれば、「選択」しなければならない。
「選択」せずに誰かが勝手に良い社会に連れて行ってくれる、と思うのは甘い考えで、
その便利さが享受できるとしてもそれは数十年後かもしれない。

なので必然的に「選択」を繰り返し、少しずつ自分の人生/社会を良くしていくしかないのだが、
その際には自分が選択の際にどういった影響を受けているか把握する必要がある。

選択の際にどういった影響を受けているかを把握するにはどうすればよいか?
⇒行動経済学を学ぼう!

なぜか最終的に行動経済学の宣伝になってしまいましたが、
これはまあ僕が行動経済学好きなのでしかたないです。

まあ別に行動経済学を学ぶまでいかなくても、
自分はどういう選択を行っているのか、あるいはどういう「選択しない」という選択を行っているのか、
という点について自覚的になるだけでも割と日常は変わるのかなと思いますけれどね。

そんなところがこの話の結論でございます。
そんぢゃーね!!!!!!!

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