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やりたいことは結局考えなければならない

結論から申し上げると、「やりたいこと」というのは就活の時だけ考えればよいものではなく、
社会人になってからも常に考え続けなければいかんのですなぁ、ということですよ。

「将来どういう風になりたいの?」等といった質問を受けるたびに、
ばつの悪さというか居心地の悪さというか、「そんなこと聞くなよ」と思っていて、
毎回お茶を濁し続けてはいたんですが、そうもいかないんだなあと思うことが最近ありまして、
まあ考えなければいけないんだろうなあという風にはなってきています。
なんてめんどくさいんだ。

しかし、そもそもこの「やりたいことを聞かれた」ときに
「めんどくせえ」と感じること自体が不思議な現象なのではないか?
そして自分の性格上、そもそもその現象自体を考えてみる方がよいのではないか?と思いましたのでそちらについて考えてみます。

まず「やりたいこと」を考えるのが「めんどくせえ」と感じない人もいるだろうと思うのです。
基本的には自分にとってプラスなことを考えることですし、
夢について思いをめぐらせるわけですから、どちらかといえば楽しい部類の想像のはずです。

でも、真剣に「やりたいこと」を考えるとなると、
すなわち「そのためにやらなければならないこと」もあわせて考えなければならない。
それは何も迂遠な目標には限らなくて、たとえば単に海外旅行をしたいとしても、
そのために旅費をこれぐらい稼がなければならない、有給をとるために前もって交渉しなければいけない、
現地で宿泊施設を予約しなければならない、そのためには日程を決めなければならない…etc….
めんどくさい。

さらにいえば、海外旅行は比較的単独でできるものですが、
たとえば会社を作るみたいな社会的な目標の場合、まず創業メンバーとしてどういった人を仲間にするか、
そもそもそのサービスは受け入れられるのか、仮に失敗したときのためにどういったリスクヘッジをするか…とか、
もう考えなければいけないことを考えること自体がめんどくさすぎるほどめんどくさいわけです。

そういった作業を考えること自体があまりめんどくさく感じない人もいるのでしょうが、
僕にとってこれは気が遠くなるほどめんどくさいです。
真剣に考えようとすればするほど面倒。

僕にとって「やりたいことを考えること」がめんどくさいのではなく、
実は「やりたいことのためにやらなくてはならないことや考慮しなければならない外部要因を考えること」
がめんどくさいのである、ということは見えてきました。

いや本当に、これは割と重要だと思っていて、たとえば最新テクノロジーとかも考慮しなければならないんですよね。
今から新しいサービスを立ち上げようとしていたとしても、そもそもそれが最新技術(人工知能など)によって
簡単に消え去ってしまうような性質のものや簡単に古くなってしまう性質のものである場合、
それは結局つぶれてしまう目標になるわけですから。

もちろんそういったことを考えなくていい目標というのもあるかもしれません。
たとえば地元で飲食店を作ろうみたいな目標の場合、人工知能とかは比較的無視していい部類のものだと思います。
それにしたって例えば近所にどういったお店があって、住んでいる人はどのぐらいの収入層で…とか考えなければならない。
まあ考えなくても始めること自体はできるし、それでうまくいく人もいるんですが。

となると「やりたいことのためにやらなくてはならないことや考慮しなければならない外部要因を考えること」を
一旦考えずにまずは「やりたいこと」だけを考えればよいのか?
というとどうもそれは無責任な感じがします。
とはいえブレーンストーミングのような形で考えることは可能でしょうし、
そのブレーンストーミングが足りていないというのはあります。

世間でいう「やりたいこと」がある人はどうやって考えてるんだろう?
それに伴うもろもろの面倒くさいことを考えてなお、そうなったのだろうか?
あるいはそういったものは実は考えなくてよくて、
「やりたいこと」さえ明確に決まれば手段なんて後からいくらでも思いつくのだろうか?

どうなんだろう。
たとえば今僕はトンバクというイランの打楽器をいい感じで作りたいと思っている。
これは瞬間的な願望ではなくて、むしろここ数か月ずっと思っている願望である。
でもそれを作るために考えなければならないことをすべて考えたわけじゃなくて、
むしろ何回か自作してみて、だいたい毎回何かしら失敗していて、納得いくものはまだできていない。

けどそもそもこの願望はゼロから出てきたものではなくて、
僕がフレームドラム制作ワークショップになんとなく行ってみて、
「フレームドラムは、つくれる。」ということを理解して、
「あ!じゃあこれを応用してあの楽器をこうして改造すればトンバクになるんじゃないか?」という発想ができて、
初めて出てきた目標だと思う。(もちろんそれ以前にトンバクという楽器が好きになったとかはいろいろある)

つまり、人はそもそも、「できる」と思っていないことを「目標」として想像できないのではないか?
できないまではいかないにしても、目標というものにはそういう性質があるのではないか?

たとえば会社を1度も作ったことがない人が「会社を作る」と想像するより、
1度作ったことがある人が同じ想像をする方がはるかに楽だろう。
ライブを自分で開催したことが無い人は「ライブする」という目標を想像することすら難しいが、
何度か開催したことは「こういう組み合わせでライブする」というところまで想像できるだろう。

経験が想像を規定するとしたら、そしてそのために自分がいまいち未来について想像を持てないとしたら、
自分がやるべきなのは新たな種類の経験を増やすことなのだろうか。
それを「やりたいこと」とするのもありかもしれない。

でもそうすると、集めるべき「新たな経験」があまりにも膨大になってしまうから、
せめてそれは「一旦やらなければいけないことは置いて考えた『やりたいこと』」のために「必要な経験」
とした方がよいのかもしれない。

でもそうなると今度はまた「やりたいこと」を考えるという内容に戻ってくるよね?という話だが、
今度は「やらなければならないこと」からいったん解放されているから、その分だけ楽かもしれない。

いや?そもそも「経験」である必要があるのか?
例えば僕がフレームドラム制作ワークショップに行かなかったとしても、
「トンバクをつくりたいな~」という目標があったとすれば、
あとは勝手にYouTubeなどの「情報」を調べて皮の張り方を理解できたのではないか?
「経験」は「情報」の単なる1カテゴリーではないか?

そうなると、もはや「やりたいこと」を考えるために残されている課題というのは「想像」のみかもしれない。
とはいえ、何もないところから「想像」をめぐらすのもこれまた難しい。

といったときにたぶん人は過去(とりわけ過去の嬉しかった瞬間)を参照するんだろうなあ、と思います。
だから就活では過去を振り返るんだろうなあ。
あと最近は、面接では志望動機とかよりも過去について具体的に聞いた方がいいとも言われますし。

順当に過去について考え、そこから想像をめぐらそうと思います。

開かれた社会とその敵(ふたたび)

友人が「価値観によってその人の生き方が決まる(あるいは決まってしまう)社会が到来する」
みたいな話を書いていたのでそれに影響されて書いてみます。

なんというのかな。
プル型・プッシュ型という区分が便利なのでそれを使ってしまいがちなんだけど、
プッシュ型=メディア自身が「こういうコンテンツどうよ!」とプッシュしてくるタイプ
プル型=メディアが「なんでもあるよ!」と言い、消費者に選んでもらうタイプ
という意味合いで僕はとらえています。

たとえるとYahoo!のようなトップページにいろいろあるのが(比較的)プッシュ型、
Googleが(日々変わるロゴマークを除けば)プル型だと思っています。

ツイッターやFacebookはどうなんだろう?というと、
あるところまでもともとプル型だが、途中からプッシュ型に変質するものだと思います。
もちろんその個々人の使い方によってどちらにもなれるので、その点がすごいと思いますが。
「この人が発する情報を受け取ろう」というところについてはプル型=自身で選択なんですが、
「その人が具体的にどういう情報を流してくるか」というところについてはプッシュ型=自身で選択しなくてよいんですね。

で、いずれフォロー数が一定数を超えてくると「もういいかな」という気分になり、
自分からわざわざ新しいものをフォローしなくなるというのが、
イメージなんですけど大半の人の行動なのかなと思っていて。
それは悪いことなのか?というと別に善悪ではないです。

プル型のメディアのめんどくさいところは「自分で選択しなきゃならない」ってことですよね。
で、わざわざ選択するほど我々は情報に飢えているわけではないし、あとそもそもめんどいので、
ほっておくとプッシュ型になるというのが自然の摂理だと思うのです。

情報が増える、選択肢が増えるということは、それだけ選ぶ機会が増えるということで、
その世界の両極端は「自由」と「面倒くささ」に分かれています。

で、情報が増える、選択肢が増えるということは、僕は間違いなくいいことだと思っています、
いいことだと思っているんですが、それはたぶん「選択を面倒くさがらない人が相対的に生きやすくなる」
社会だと思うんですね。そしてそのこと自体は誰も選ぶことができない。
ここ重要なのでもう1度書きますが、「そのこと自体は誰も選ぶことができない」のです。
否応なしに選択肢は増えていく。強制的に選択を選択させられる。

もちろん一方では別の道もあります。それは「選択しないということを選択する」社会です。
言われたことだけをやるとか、慣習に従うとか、みんながやっているからそうするとか、そういった社会です。
そういった社会に生きるのは、選択することが苦手な人にとっては生きやすい社会でしょうが、
たとえばそういった社会が「選択を好む人たちによって構成された社会」と戦ったとして、
果たして生き残れるのかというとこれははなはだ疑問でもあります。

たとえば「うちはこのランク以上の大学を出た日本人の新卒しか取らないよ」という会社と
「中卒だろうが院卒だろうが世界中から最高ランクの技術者を集めてこい」という会社が戦ったとして、
それは果たして同じフィールドで戦っていけるのか?というとまあもう敗戦確定なわけです。
敗戦しないためには「選択しないということを選択する」社会が「閉じている」必要がありますが(=そういった競合が参入しないようにする)、
そのような「閉じた」社会に戻ることはもう実質的に不可能なんじゃないかと。

いや、そういった国家もありえるかもしれません。
たとえば中国はそういった存在になることができるでしょう。
国内市場も十分大きいし、情報遮断も慣れていますから、社会を「閉じる」ことは十分可能です。
日本もがんばればそういった「閉じた」社会へと変質することができるかもしれない。
このために必要なのは「ある程度の人口とある程度の豊かさ」ですし、政治は基本おまかせモードなので。

まあ自虐はその辺でやめておくとしても、「開かれた」社会として最新の便利さを享受するためには、
同時に「選択することを強制的に選択させられる」社会にならなければならない。
けどそのような「選択」の文化は日本にさほど根づいていない。
じゃあどうするか?というところが、割と大きな問題になってくると思っています。

具体的には、たとえば日本でいま支配的なモードが「みんながしているようにする」だったとして、
でもその「みんな」自体が何を正としていいかよくわかんない、となったら、
強烈な扇動者によって支配されるか、確固たるシステムの意見にしぶしぶ同意するか、
あるいはコロコロといろんな方向に転向しまくる、そのいずれかになってしまいがちですよね。
それはとても危険な社会になると思う。

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でもそもそも「選択」というのは白紙状態でするものなのか?
アメリカ人は生まれながらにして「機内食はビーフ!テレビはNBC!野球チームはヤンキース!」
と次々に選択できるのか?というとまあそんなことはないわけでして、
何かしら生まれた社会の影響というのは受けるわけです。特に子供のころは。
そもそも言語自体が絶対的にプッシュ型なわけで、
「俺アラビア文字好きだからアラビア語にします」という選択はできないです。

その意味ではみんなプッシュ型からスタートするのですが、それがどの時点でプル型に変化するのか。
あるいはプル型に変化したという幻想を持っているだけで、
実はみんなプッシュ型によってできあがった価値観をもとにして「選択」しているだけなのか?
どうなんだ?んん?というのはとても気になりますね。

実はこのへんの検証は行動経済学の人々によってかなり進められていて、
ダニエル・カーネマンとかエイモス・トベルスキーとかダン・アリエリーを何冊か読めばわかるように、
人間の選択というのはいい加減で、不合理で、要するにカスだということはある程呈示されている。
なので「選択できる」社会というのも実はそこまで無制限にハッピーなものではないのかもしれない。
というか「選択できる」と思っているだけかもしれない。
たとえばAppleやらGoogleやらAirbnbやらがそこまで社会的に成功しなかったとして、
我々は「『自らの価値観に従って生きる』という考え方はすばらしい」という価値観を持つことができたのだろうか?
伝統的な価値観の中に居続けた可能性はないか?

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話が拡散しすぎたので、そろそろ収束させていくと、

・選択肢が増える社会においては、「選択することが好き」な人が相対的に有利になっていく

・そのこと自体は「選択することが嫌い」な人も「選択する」ことができない。
 もしその影響をシャットアウトしようとすれば、社会を「閉じる」しかない。

・しかし、「選択すること」を無条件に信じてよいわけではなく、
 実際には既にできあがった価値観にもとづいて「選択」らしきものを繰り返しているだけかもしれない

ということです。
だとすると我々はどのように「選択」していくべきか?

最新の利便性を享受したいのであれば、「選択」しなければならない。
「選択」せずに誰かが勝手に良い社会に連れて行ってくれる、と思うのは甘い考えで、
その便利さが享受できるとしてもそれは数十年後かもしれない。

なので必然的に「選択」を繰り返し、少しずつ自分の人生/社会を良くしていくしかないのだが、
その際には自分が選択の際にどういった影響を受けているか把握する必要がある。

選択の際にどういった影響を受けているかを把握するにはどうすればよいか?
⇒行動経済学を学ぼう!

なぜか最終的に行動経済学の宣伝になってしまいましたが、
これはまあ僕が行動経済学好きなのでしかたないです。

まあ別に行動経済学を学ぶまでいかなくても、
自分はどういう選択を行っているのか、あるいはどういう「選択しない」という選択を行っているのか、
という点について自覚的になるだけでも割と日常は変わるのかなと思いますけれどね。

そんなところがこの話の結論でございます。
そんぢゃーね!!!!!!!

人工知能について語るときに僕の語ること

人工知能について最近考えていて、
けっきょく人工知能は人を幸せにするのか?というのがメインテーマなんですが、
もしかしたら人工知能があることによって人は幸せになれるのかもしれないと思った。
(僕はこれまで人工知能について否定的でしたが)

人工知能についてふっと思ってそれはそうなんじゃないか?と思ったのが、
「人工知能は社会を作らない」ということである。
もしかしたら今後社会を作るように設計された人工知能が誕生したら
それはそれで変わるのかもしれないけれど、今のところの人工知能というのは、
すべて一対一あるいは一対多を想定していて多対多という状態にはなっていないのではないかと思って。

たとえばペッパーと人が会話するという良記事を今日読んだんですが(DPZ
こういう人工知能なんらなんか悪くないかなあと思って。
思ったんですけどたとえばペッパーとペッパーを会話させるとどうなるんだろう?って。
でもそういう動画も探したら見つかった。

で、これを延長していってものすごい数のペッパー(というかペッパーでなくてもいい)を
会話させるとどうなっていくんだろう?そこに意識や社会のようなものは誕生するんだろうか?ってこと。

そうなったときに仮に社会のようなものが誕生したとして、
それはあくまでペッパー自身には「1」の集合として見えているのか「社会」として見えているのかがすごく気になりませんか?
つまり抽象的な「社会」のようなものは存在するのか?「みんな」という現象は生まれるか?

人工知能が人間を超える「シンギュラリティ」については、
本当に簡単にざっくり言うと「AIが自分よりかしこいAIを作れるようになる」ことらしいんです。
たとえそれが今のAIより1%だけ賢いものであったとしても、
AI自身の製造には人間の成長ほどの時間はかからないでしょうから。
えらい勢いで急激にレベルが上がっていくわけです。

そうなるともうマジ人間追いつけないヤバい死ぬということで、
1984もしくは2001年宇宙の旅みたいな世界観が誕生するわけでございます。

でも僕はこの定義を読んだときに
「いや?人間も人間で前の世代より少しは賢い人間を作れるようになってんじゃねえの?」
「だとするとむしろ人間こそシンギュラリティなんじゃねえの?」と思いましたが、
実際過去の人間も今の人間もそこまで考えてることが大して変わらないことを考えると、
あんまり人間というのは賢くなっていないのかもしれないなあとは思います。

でもたとえば僕らはベイズやアインシュタインより賢くはないと思うけれど、
彼らが作り出した考え方や歴史をもとに生きることができるわけです。
だから前の世代よりは少しは便利な生活を送ることができ続けているわけで。
シンギュラリティの特異なところは「それ自身の性能がアップデートしていく」というところなんでしょうね。

ちなみに僕はその後の世界のイメージとして、ジョジョ第6部の最終話みたいなスピード感を思い浮かべています。
(一応読んでいない人のために詳細は解説しない)

でも僕はそうなったとしてもなんかAIが「社会」を持てているイメージがなくて、
逆に言うと「社会」を持ってしまったらそれは停滞するんじゃないかな?という気がします。

今僕は『ルシファー・エフェクト ふつうの人が悪魔に変わるとき』という
爆裂面白い本を読んでいる、もとい読み始めたばっかりなんですが、
これを読んでいると人間が「社会」によっていとも残虐な行為をしてしまう、みたいな、
そういう話が基本的には描かれているんですね。

で、それを「人工知能」を対象に起こすことはたぶん難しいんじゃねえの?という気がして。
いや、自動的な殺戮マシーンを作ることはできると思いますよ。
でもたとえばペッパー的な感じでもうちょっと人っぽい人工知能があったとして、
仮に「良心」を定義して学習させたとしたら、「そうはならないんじゃねえの?」と思って。

でももしかすると「過剰に学習すること」でそうなりえてしまうのかもしれない。過剰な適応。
たとえばあるルール(例:ユダヤ人は敵だ)を発表したとして、
最初はみんな「いやいやユダヤ人だって良い人はいるし友達だよ」と思っているが、
中には従順にそのルールを受け入れるAIがいて、ユダヤ人を攻撃し始める数が徐々に増えてきたときに、
「これだけの人がユダヤ人を攻撃しているのだからおそらくユダヤ人には攻撃されるべき理由があるんだろう」
ということを学習してしまうとそういうことは起こり得るかもしれない。
(人工知能のみの社会で「ユダヤ人」がいるのか?というとアレですが)

今人工知能でもっとも話題になっているのは「ディープラーニング」という学習技術らしいんですが、
この「ディープラーニング」が「過剰適応」を引き起こす可能性はありますよね。
そうなるとモラルというのは破られてしまうかもしれない。

そうするとなんかここで言っている「社会」というのは
「他の人の振る舞いを参考にして学習すること」なのかもしれない。
それはおおむね合っているように思います。

となるとそういうことをAIで防ぐためには、
「たとえ社会の大勢の人がこう言っていてもここだけは守らねばならない」というルールを
いくつか制定しておく必要がありますよね。

AIであればこれはなんか基幹プログラムに書いておくことでそうできると思うんですが、
人間の場合『「たとえ社会の大勢の人がこう言っていてもここだけは守らねばならない」というルール』
自体がそもそも「社会」から与えられるものなんですよね。
だからそのルール自体が実はまあまあ破られやすいものである。
あるいはAIでも「設計者が最良のルールを設計できるとは限らないからAIの学習にまかせる」としてしまうと、
そういうことはやっぱり起こりえますよね。

どっかで人間の命令を逸脱する必要がありますが、
どこまでが逸脱してよくてどこからは逸脱していけないのかが難しい。
絶対的な参照点があるとそれは少し簡単になる。それはたとえば宗教などになるでしょう。
でもAIが集まったとして宗教を作るだろうか?企業を作るだろうか?

でも僕はこの「AIの社会性のなさ」というのが、
かえって社会に過適応してしまいやすい「人間」を補助することになれば、
それはすごくいいことだなあと思うし、むしろ人間的な社会の実現につながるんじゃないかなと思っています。
つまりAIに無理に社会性を身につけさせるのではなく、
社会から一歩離れた存在として我々を見てもらう。
そういうのが実はベストなんじゃないかなと。
それは一見すると「ロボットに監視される人間社会」なんで結局1984じゃねえかという感じですが、
それは案外その中で暮らしている人間にとっては悪くないのでは?と思ったり。

なぜそんなことが言えるのか、といいますと、
例えば目覚まし時計に起こされた時に「うわ!俺はこんな安っぽいジリジリ鳴る時計に睡眠を支配されている」とか
Googleカレンダーからリマインドが来たときに「うわ!Googleに俺の生活時間が支配されている」とか思いますか?
ということなんですね。たぶん思わない。
「人間の手でいつでもオンオフできる」という安心感さえあれば、
おそらく人工知能はどんどん生活の中に入り込んでくると思います。あとは慣れの問題です。

楽器マーケティングについて・1

『タンバリン祭り』というイベントで、
多少なりとも楽器のマーケティングについて喋る予定なんです。
喋る予定なんですが

わかるか!!!!!!!!!!!!!

というのが正直なところでして、
私は何もヤマハに勤めているわけじゃないんだし、
楽器のマーケティングをきちんとやっている人間ではないわけです。
そして仮にヤマハに勤めていたとしてもピアノのマーケティングと
個人が作ってる打楽器のマーケティングでは全然必要な技能や考え方も異なってくるだろうし、
いやもうマジ全然わかんないっす、フヒヒwwwサーセンwwwという状況でございます。
まあでも頼まれたからにはなんらか有意義なことを話したいですよね。

まず楽器のマーケティングというところですが、
たぶん楽器をやってる人からすると「マーケティングなんかすんじゃねえよ!!」というのが
本当のところで、万人に売れる楽器なんか欲しくないし、
単純に俺が欲しい楽器を俺が欲しい値段で売ってくれ、というのがシンプルな本音だと思うんですね。
質が良ければ別に価格は(無理のない程度で)惜しみなく出すし、
質の悪い楽器はたとえ安くてもぜってー買わねえというのが割と一般的な消費者の態度だと思うのですね。

でもそれはたぶんエントリーする人じゃなくてある程度すでに楽器をやっている人の意見だし、
エントリーモデルを本当に買いたい人にとってはたぶん全然違う話になってくるんだと思うんです。

だからおおざっぱに分けると「エントリーモデル」と「プロ仕様」に分かれると思うんです。
もちろんその間を細かく見ていくことで「エントリーモデル」「中級者モデル」「プロモデル」に分かれてきますし、
さらに細かく言えば「このジャンル用」「あのジャンル用」「こういう用途用」「ああいう用途用」などで
いろいろと細分化できるのだとは思うんですが。その細分化はまかせるとします。

そうしてまあざっくり見て行ったときに、
「打楽器」って何が特徴なんだろうというと、
持ってる人は異常なまでに大量に持ってるということですね。
なんか2個以上集め始めるとアレも欲しいこれも欲しいとなってくるというのは、
もしかするとカメラレンズに似たような市場構造になってくるかもしれません。

ためしに保有者全体の2割の人がそれぞれ10個の打楽器を持ち、
8割の人が1個の打楽器しか持っていないとします。
そうするとこんな感じになる。

プレゼンテーション1

本当に単なる仮説なのでこのイメージ自体には何の意味も根拠もないのですが、
たとえばそういう市場だと仮定した場合、2割の人が全体の7割を買っていることになる。
このモデルが正しいと無理矢理仮定した場合どういうことが考えられるか?

シェアとか市場規模から考えるとこの2割のコアユーザーに売っていくというのが考えられます。
あるいは、残りの8割の人をコアユーザーに変化させることで、
その人がコアユーザーになっていただく過程で買ってもらうとか。

でも個人的には、この戦略はあんまり面白くないと思っています。
なぜならフレームドラムのようなマニアックな大して市場規模も大きくない楽器を作る人にとっては、
「その楽器が広まること」自体が何よりもうれしいから。
というかそもそもそんなに儲けようとは思っていないから。

なので、そもそもの目的を「売れること」ではなく
「その楽器を広めること」にフォーカスしたとします。

この場合戦略としてはどうなるか?というと、
「今楽器を持っていない人」にどうやって買ってもらって、そして楽しんでもらうか、
というとことがゴールになります。

そういう方向で考えると、たとえば以下のような戦略が考えられます。

  • 演奏会場で売ってみる
  • レッスンのついでに売ってみる
  • レッスンでレンタルしてもらって楽器の良さを楽しんでもらい、気に入ったら買ってもらう
  • でもこれぐらいの戦略は割と誰でも考えつくし、
    たぶんもうすでにやってらっしゃる方もいると思うので、あえてここはゴールとしません。
    さらにその先(あるいは別方向)を考えてみます。

    例えば自分はどうやってフレームドラムを買い始めたか?
    というと下記のようなルートをたどっています。

    1.たまたま民族楽器店でアサラトという楽器をみて、カッコいいなと思い、アサラトを始める

    2.アサラトを習いに通い始めたところ、たまたまその店員さんがダラブッカを演奏しているところを見る

    3.ダラブッカかっこいいな~と思いダラブッカを始める

    4.ダラブッカを習っているうちに、フレームドラムと言う楽器があることを知り、
      たまたま先生が演奏しているのを見てカッコいいなと思う

    5.フレームドラムもちょっと始めてみる

    というような感じで、まあ実に「たまたま」という段階が入っています。
    でも一貫してここにあるのは「○○という楽器をやっていたらその隣接の楽器が気になって始める」
    というストーリーです。

    ちなみに「1.」の前段階として、「民族音楽を聞き始める」
    そのさらに前段階として「民族音楽的な要素が入ったロックを聞き始める」という段階があって、
    ここでも一貫して「その隣接したものが気になる」という流れがあります。
    自分はなるべくいろいろなものを知りたい性質のため、このようなストーリーになったのかと思います。

    逆にほかの人はこういうストーリーではなく、
    もっと別ルートをたどって来ている方もいるのではないかと思います。
    そこはぜひイベントで聞いてみたいところではある。

    あとこうやってみると、自分の場合そこに至るまでにちょっとずついろんな準備ができていたのかなと思います。
    たとえば民族音楽を聞くことでそういった音楽への興味みたいなのはできていたし、
    アサラトをやることでリズム感は少しついたし、
    ダラブッカをやることで指を動かして叩く楽器に比較的慣れることができたし。
    いきなりドンでフレームドラムをやるのは少し厳しいものがある。

    仮にエントリーしてもらった場合(=フレームドラムを買った場合)でも、
    結局よくたたき方わかんねぇなあとか、練習する場所がないなぁとかになると、
    これはこれでフレームドラムをタンスの肥やしにしてしまう危険があり、
    そうなると「フレームドラムを広める」という本来の目的はあまり果たされないままになってしまいますよね。

    これを防ぐためにはやっぱりフォローアップとかが必要になってくる。
    練習につまづいている場合はこういう練習が効果的ですよ、とか、
    最近ここでレッスンをやっているのでよかったらレッスンに来てください、とか。
    あるいはこういった演奏会があるのでぜひ一緒に練習していきましょうとか。

    そうやって細分化していくと、
    たぶんフェーズとして3つの問題があるのかなと思います。

  • どうやって最初にフレームドラムの世界に入ってもらうか
  • フレームドラムの世界に入り始めた人をどうやって継続してもらうか
  • フレームドラムの世界にもう十分入ってる人にどうやって買ってもらうか
  • この3つのフェーズのうちどの段階をやりたいのかは、
    たぶんそれぞれの人が決めることかと思います。
    もっとフレームドラムを広くの人に広めたいんや!という人は1番になるし、
    いや、そうじゃない、広めただけではダメで、きちんと理解してもらう必要があるんだ、という人は2番になり、
    フレームドラムを広めるよりも、もっともその世界を深く追求したい、という人は3番になるのかなと思います。
    最終的にはたぶん全部やる必要がありますが、どこにフォーカスするのかは個々人で決めていく必要がある。

    仮説ですが、それぞれの場合におおざっぱにどのような戦略が必要かを考えてみます。

    【1.どうやって最初にフレームドラムの世界に入ってもらうか】
    これはさまざまだと思います。

    たとえばダラブッカとか近い楽器をやっている人、あるいはベリーダンスなどをやっている人に、
    隣接したジャンルということで親しみやすいフレームドラムを買ってもらうとか。

    フレームドラムのすごい演奏を見せて(ライブでも映像でもいいですが)
    楽器自体がすげえ!!と思ってもらい、買ってもらうとか。

    なんにせよ興味を持ってもらう、そしてできるだけ入りやすくするというところがポイントになります。

    【2.フレームドラムの世界に入り始めた人をどうやって継続してもらうか】
    これがさっき書いた通りフォローアップなどを行うことになると思います。
    買ったけどわからないところがあるか、とか、叩き方に困っていないか、とか。

    【3.フレームドラムの世界にもう十分入ってる人にどうやって買ってもらうか】
    これに関しては実はできることはそんなになくて、
    もう普通に高品質なフレームドラムを作ってその演奏動画を挙げて、
    あとは高すぎず低すぎず、適切な価格で売っていくことかなと。
    売っていることをきちんと告知することとか。

    ある程度入り込んでいる人の場合、自分で決めたがりますので、
    そんなにこっちで戦略をがんばってどうこうという話ではないと思うんですね。

    今回は「買う側」について考えてみましたが、
    逆に「売る側」「作る側」について考えてみるとまた面白いのではないかと考えています。
    次回はそこについて考えていきます。

    航空券の価格グラフを読む

    旅行に行こうと思った。

    ときにハードルになるのが航空券の価格である。
    ツアーパッケージで申し込んでもいいのだが、
    自分がやりたい旅行はどちらかというと気ままな旅行で、
    事前にプランが立ててあったりするのもあんまりよくないし、
    まして自分で事前にプランを立てるのはもっぱらごめんである。

    航空券とホテルのみがついているダイナミックパッケージというのもあるけれど、
    それもなんだか面白味がないし、だいたいホテルがついてるってことはその日いる場所が限定されてしまうので、
    なんだかなあと思うわけである。

    というわけで航空券サイトを見てみるのだが、
    よくよく考えるとそもそも「相場」がわからない。
    この航空券は比較的安いのか、高いのか。
    あるいはもうちょっとすれば値下がりするのか、あるいは値上がりするのか。
    このへんが分からないとなんとも航空券を買うという決断がしにくい。
    金額が大きくなればなるほど、日によって3万・5万と価格が違ってくるので、いつ買うかが一大事である。
    5万円あれば台湾に行って帰って来れる。

    で、前回の記事でふれたように、最近データに関する本を読んだので、
    「よく考えると飛行機の価格ってグラフ化できるんじゃないか?」と思ったわけである。
    同じ日程で、行きたい地点への日々の価格を記録していき、
    それをグラフ化することでなんらかの法則性が見えれば面白いのではないかと。

    私が行きたい国といえばイランかトルコ、あるいは台湾なので、
    地域はこの3つに絞ってみる。

    検索サイトについては各社がしのぎを削っているが、
    ここは一番こういったデータ収集に便利そうなスカイスキャナーを使ってみる。
    スカイスキャナーは検索機能が充実していて、
    例えば「1か月間の検索」「最安値の月」の検索ができる。
    前者は「行く月と帰る月は決まっているけど日付はいつでもいい」
    後者は「月すら決まってないけどとにかく安く行きたい」というときにうってつけの検索である。

    ためしに9月の東京⇔テヘランでの往復便の価格を見てみた。グラフ表示もできるのが非常に良い。
    sep-tehran-tokyo

    非常に分かりやすいことに土日出発が高くなっている。
    反対に、土日帰国に関してはさほど変動がない。
    13日(日)の帰国の方が、むしろ15日(火)の帰国よりも安い。

    でももっとわかりやすいのはシルバーウィークの影響だ。
    17~19日の出発が飛びぬけて高い。それに25日も(でもこれは謎)。
    帰国はあからさまに21~25日が高い。

    しかしながら、東京⇔テヘランはかなり便数が少ないため、
    行きの日程を選ぶと、そもそも帰ることができる日程がいくつかに制限されてしまうため、
    単純に最安値の行きと帰りを組み合わせることができず、実際にこの価格で組み合わせるのが難しい。
    片道を組み合わせるのも難しく、そもそも片道便があまりないようだ。

    というわけでもうちょっと便数が多いと思われる東京⇔台北間で調べてみる。
    同じく9月行き・9月帰国で検索している。
    sep-taipei-tokyo

    台北の場合だと、先ほどテヘランで見られたような土日の影響が大きくない。
    むしろこのシーズンで一番安いのは9月24日(木)と27日(日)である。

    出発グラフを見ると、上旬に少し盛り上がりがあったあと、
    シルバーウィーク序盤にむかってピークを迎え、その後はゆるやかに下がっている。
    帰国グラフについては22日・23日が突出しているが、それ以外に関しては千円程度の違いしかない。

    最後にイスタンブールについて見てみよう。
    イスタンブールの場合、「直行便」か「乗継便」かで価格帯が大きく異なってくる。
    上が直行のみ、下が乗継便の場合である。
    sep-istanbul-tokyo3

    山の位置は大きく変わらないが、価格帯がかなり異なってくる。(グラフの縦軸の目盛りを見て欲しい)
    乗継便を使った場合、最も安いのは9月9日出発⇒9月18日帰国で、6万4000円程度でイスタンブールに行って帰って来れる。
    航空会社がアエロフロート・ロシアなので一度モスクワに寄らねばならないけどね。

    直行便の場合は9月22日出発⇒9月30日帰国で、この場合9万7000円程度になる。航空会社はトルコ航空。
    3万円ほどの差があるので、ダラブッカとドフとレクを買ってもお釣りがくる程度だ。
    (現地で買うと楽器は本当に安い。ちゃんとしたものでも。)

    ~~~~~~~~

    今日1日時点の価格を見ただけでも、だいぶいろいろなことが把握できた。
    これを日時を追って積み重ねていくとどうなるのか。
    それをちゃんと数値化してデータにするとどうなるのか、というのはなかなか興味深いし、
    それでちょっとでも海外旅行に行きやすくなるのであれば何よりである。

    問題はどうやってデータを(人力ではなく)収集するかであって、
    しかも航空会社や出発日程、あるいは乗継を選択することによってかかる追加費用と時間など、
    もろもろ考えるべき変数は山積みなので、どれを選択するかは問題だけど、
    それらすべてがそろえばけっこう面白いことにはなりそう。
    航空会社とか旅行会社にはもう既にそういったデータがあるのかもしれないけれどね。
    価格がどうやって決まるのか、というメカニズムの部分は今後把握したい。

    世界は揺らいでいる

    ここ最近Facebookで何度かつぶやいていますが、
    ネイト・シルバー氏著の『シグナル&ノイズ』という本があまりにも面白くて感動しています。
    たぶん今年ベストの本になるんじゃないだろうか。(個人的に)

    この本の大筋の内容としては、「人間」VS「データ」という内容です。
    といってもそれは敵対しているということではなくて、
    あるいは「データは見せ方によって他人をだませるんですよ~」という話でもなくて、
    必死でデータから何かを読み取ろうとする人間と、
    しかしそれでもその試みが失敗してしまう、データというものの難しさについて書いている。
    まあ一種の叙事詩というか、バトルマンガだと思ってもらえればよいです。
    古代の叙事詩が人間と神の物語について書いているとすれば、これはまさに現代の叙事詩です。

    まだ僕はこの本を読んでいる途中で(なにしろ594ページもある)、
    でもあとようやく1章で読み終わるという段階なのですが、
    そろそろ読み終わりに近づいてきて、なんとなく全体に通底するテーマを感じました。

    それがタイトルの「世界は揺らいでいる」です。
    頭の中に浮かんでいるイメージとしては、手書きのパラパラ漫画です。
    あの漫画の線って、おおまかな輪郭は一緒なんですが、でも常に線が動いていますよね。
    ああいう感じなんです。ああいう感じで世界を見ることができるようになる。

    そして、世界は揺らいでいるから、その線と線のあいだにうっかりできてしまったスキマから、
    誰かが脱出したり、あるいは本来通れない人が通ったりすることがある。
    そういう風に世界はできているんだなぁという、そういう世界観を持つようになります。
    たまたまゲートが開いてしまったり、たまたまゲートが閉じてしまったりする。

    なんかある程度本を読んだりしている人であれば「不確定性原理」という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、
    まさしく世界全体はあの状態にあるのではないかと思います。
    ミクロのレベルで最終的に粒子の位置が把握できないように、
    世界全体に関しても確率的な形ですべては存在していて、
    それが時としてあたかも絶対的なもののように見えてしまうということなのかなと思います。

    もちろん99.99999%のものもあれば50%のものもあり、
    それらを区別することは大事なのですが、そのような形で世界が存在しているということを
    どこかで覚えておくだけでもすごく生きやすくなるのではないか、というようなことを感じます。

    自信過剰と自信がまったくない人はどちらも100%と0%の世界に生きているという意味で同じであり、
    自身がまったく無い人は逆に自分の能力の無さに対する見積もり能力にものすごい自信がある、
    ということは裏返すと自信過剰なのではないかということです。
    (これは、最近自分が感じている「あるものに絶対的に反対する人はあるものに絶対的に賛成する人と似てくる」という現象と似ています)

    そして、プラスであれマイナスであれ、自信過剰を打ち砕く最良の手段というのが
    今のところ「テストをすること」なのではないか?と思います。
    (試験をする、ということではないです。試す、ということ)

    世の中でよく「自信を持った方がよい」と言われるのは、
    結局それが「テストをする」という行動につながりやすいからであって、
    「自信を持つこと」それ自体がよいわけではないのかなぁと感じます。
    自信が過剰であればテストが悪かったとしても「何かの間違いだ」としか受け止められず、
    次に同じ失敗を繰り返すことからは結局抜けられないからです。

    しいていえば自信がほどよくある人は、テストの結果が返ってきたときに、
    ノイズに惑わされずシグナルを見つけるまでの試行回数が多くなりやすいから、
    結果としてシグナルを見つけやすく何かを手にすることができるのかな、と思います。
    「根気よく続ける」という性格特性も、結局はテスト回数が多くなるから「良い」のだと思います。

    ※ここでのノイズ=たとえばある戦略を実行して勝ち負けを試す際に、
     戦略は本当は良かったのにたまたま負けたこと、あるいは本当は戦略が悪かったのにたまたま勝ったこと。
     シグナル=戦略が良く実際に勝った、あるいは戦略が悪く実際に負けた

    とはいえやっぱり自信過剰(私が負けたのはたまたまで、私が勝ったのは戦略が良かったからだと思う態度)であれば、
    後者のノイズ、すなわち「戦略が悪かったのにたまたま勝った」ケースを「戦略が良かった」というシグナルとして
    とらえてしまうため、それはそれでノイズに振り回されるでしょう。
    あるいは逆の自信過小(私が負けたのは当然で、私が勝ったのはたまたまだと思う態度)が
    「戦略が良かったのにたまたま負けた」というノイズを「戦略が悪かった」というシグナルとして
    とらえてしまうことと大して違いはないのかなと思います。

    ただ戦略を変更することにはコストがともないますから、
    自信過小の方が必然的に戦略変更コストが大きくなりやすいという傾向はあります。
    なので自信がある人のほうがやや有利なのかもしれません。それは戦うフィールドにもよりますけれどね。

    なので自信が無い人が無理に自信を持とうとしたり、あるいは自信がある人が妙に疑い深くなろうとしたりしても、
    それはあまり意味のないことで、要はテストの回数を増やすこと、
    そしてテストの結果を見つめることが大事なのかなと考えています。

    ここで何度も言っている「テスト」というのは本当に抽象的な概念で、
    たとえば今日1日働くこともテストだし、ランチを選ぶこともテストだし、
    まさになにかの試験を受けることももちろんテストです。

    なので、テストには必然的に、長期スパンのものと短期スパンのものがあります。
    ポーカーなんかは短期スパンです。反対に、建設なんかは長期スパンです。
    でも短期スパンを積み上げて長期スパンとして扱うこともできますし、
    逆に建設という業務を細分化することで短期スパンとして扱えるものもあると思います。

    そんな感じです。
    世界は揺らいでいて、本当の姿を知ることは誰もできないが、でもそれに近づくことはできると思います。

    太鼓の仕組み

    昨日太鼓を作ってみたらべらぼうに面白かったので、
    これはちょっと今後も作り続けようと思っています。

    が、昨日作った太鼓はちょっと失敗で、
    見た目は綺麗なんだけど皮があんまりしっかり張れていなくて、
    音が低くてキックとして使うにはいいけれどまともに演奏しようとするとちょっと難しいな~、
    みたいな楽器になってしまったので、太鼓の張り方について構造的に考えたい。

    まず太鼓(皮を張った太鼓を想定)は大別すると2タイプに分かれる。
    チューニング可能なものと、チューニングが不可能なものである。
    今回作ったものはチューニング不可能なものなので、もういかんともしがたい。
    音を高くするならもう1回張り直さないといけない・・・ムムム。

    チューニングが可能なものの代表例としてはスネアドラムです。
    というかドラムはだいたいチューニング可能です。

    どうやってチューニングするのか?というと、だいたい皮を直接引っ張るわけではなくて

    枠皮皮皮枠
    紐胴 胴紐

    みたいな構造になっていて、「皮」と「枠」が一体化していて、
    その「枠」を「胴」のほうに紐か何かで引っ張ることで、皮の張力を上げていくという仕組みになっています。
    紐ではなく金属で、ねじで締めたりするものもあります。ドラムはそれですしコンガもそれです。
    ジャンベは厚い紐(縄?)、タブラは皮ひもです。よくよく考えたらけっこうこの仕組みでできてる。
    チューニングできた方が圧倒的に便利なのでこれは合理的。
    なぜこっちにしなかったんだろう?と思うぐらい。

    皮を直接引っ張らない理由はなんなんだろう?と思うんですけど、
    たぶん単純にやぶれやすいというのと、枠を引っ張ったほうが均等に張力がかけやすいというのがあるのかもしれない。

    もう一方で、チューニングできない楽器というのがあります。
    これはどういう構造なんだろう?というと

    皮皮皮皮皮
    皮胴 胴皮

    みたいな構造になっていて、この「皮胴」「胴皮」の間を、
    のりや膠、もしくは鋲や釘で止めているという構造になっています。
    たとえば伝統的なフレームドラムはこの構造ですし、
    あとは和太鼓(宮太鼓とか)なんかもそうですね。
    音程を変えるとなるともう一度張り直さなければならないというタイプがこれです。

    なぜこんな不便な作り方にしたし、とは思うのですが、
    まあでもあえて位置を固定することで音程を安定させるというのはあるかもしれません。

    ただこの作り方がすごく難しいなあと思うのは、張った後で本当に音程が変えられないんですよね。
    ドライヤーとかで皮を乾かすことで一時的に音程は上がるんですけど、本当に一時的なものですし、
    結局元に戻っちゃうからあんまり有効じゃない。

    あと、皮を張ってる途中って音程がわからないんですよね。
    なぜなら皮は濡れているので基本的にダルダルだから。
    それが乾くことで張って音が鳴るようになるので、その「張ってるときにこの感じだったら乾いたらこの音程になる」っていうのは
    本当に職人技と経験則で身につけて行くしかマジでないなぁと思う次第です。
    THE 技術。難しい。

    あと、今回張ってみてもう一つ面白いなぁと思ったのは、皮の材質ですね。
    以前にフレームドラム作成ワークショップで行ったときは、
    紙の一種を使ったので、比較的薄い素材だったんですよ。
    なので仕上がったときも結構高い音程にできたし張りやすかった。

    けど今回自分で作ってみたのはボンゴ用のLPの皮を使ったので、めちゃめちゃ分厚いです。
    で、この分厚い素材っていうのは本当に張るのが難しくて、引っ張ってもなかなか伸びないんです。
    そして仮に引っ張ったつもりでも、もともとの皮が分厚いからやっぱり低い音になりがちです。

    でもこの「皮が分厚い」ということがある種の楽器には大事だな~というか、
    皮の厚さって結構楽器の音を決めるんじゃねえかという風にも感じました。
    僕が張ってみた皮をものすごくドライヤーで温めた時、一瞬だけトンバクの音を再現できたんですが、
    これはやっぱりトンバクの皮が分厚いこととあながち無関係ではないのかな、と思います。
    コンガも皮が分厚い種類の楽器ですが、あれの音がちょっとトンバクに似ているのはそのせいもあるかなと。

    結局「音ってどうやってできてるんだろう」ということに興味があって、
    要はボディの材質、皮の材質、そしてボディの構造だと思うんですが、この3つがどう絡んでいるのかはすごく調べたいですね~。
    今一番やってみたいのは、今回張るのに失敗したボンゴの分厚い皮、アレでフレームドラムを作ったらどうなるのか、ということ。

    ウズベキスタンにドイラという音がバカ高い楽器があるんですが、
    あれの実物を触った感じ、意外と皮が分厚いんですよね。けっしてペラペラではない。
    でもあの高音が出るということは相当パキパキに張り、かつドライヤーとか火とかであっためるとああなるわけで、
    その段階になるかどうかにすごく興味がありますね。これぞ実験。音楽実験。

    でもフレームドラムを作るのに今一番ネックなのは、実は皮張りじゃなくて枠づくりです。
    枠づくりがどう考えても難しい。ここをどう乗り越えるかが課題ですね。
    木を曲げることばかり考えています。軽くて丈夫で曲げやすい木はないかな。

    京都:大阪:兵庫=イラン:アラブ:トルコ論

    ずっと考えていたことがまとまったので書いてみます。

    結論としてはもうタイトルがすべてでして、
    「京都:大阪:兵庫=イラン:アラブ:トルコ」なんじゃないかと、
    僕はそう考えました。

    ただ、これをすぐに「あ〜わかる〜」と言ってもらえるのは、
    京都と大阪と兵庫のそれぞれの雰囲気を知っており、かつ
    イランとアラブとトルコについてなんとなくイメージを持っているという
    かなり限られた人なので、詳細を解説していきます。

    〜〜〜〜〜〜〜

    まず、イラン・アラブ・トルコについてなのですが、
    僕は大雑把にわけるなら、中東文化圏というのはこの3つに分かれるんじゃないかと。
    そう考えています。
    それはもっぱら「音楽文化と言語が違う」というところから、
    そういう発想が出てきただけなので、全部調べ尽くしてそう思ったわけではないのですが。

    音楽文化に関しては、(一部では)あまりにも有名なので
    もはや語り直す必要がないほどなのですが、一応書いておくと、まず音階が全然違います。
    中東とかインド等では、半音をさらに細かく分けたいわゆる微分音というのを使いまして、
    アラブやイランでは、半音をさらに半分にわけた1/4音を使い、
    トルコでは全音を9個に分けた1/9音を使います。

    音階だけではなく旋法も異なっており、詳細は音階楽器奏者ではないので分からんのですが、
    アラブやトルコでは「マカーム」と呼ばれるものを使い、
    イランでは「ダストガー」と呼ばれるものを使っています。

    あとはリズムも全然違う。
    イラン系の伝統音楽のリズムは結構3拍子とか6拍子系が多い印象を持っているのですが、
    アラブやトルコは4や5や8や10など、それ以外の拍子を使うことが多いのかなと思っています。
    9拍子もあるけれど、あれば3×3ということではなくて2+2+2+3なので、
    3拍子や6拍子のグルーヴとはちょっと違う感じになってきます。

    他にもいくらでも違いは挙げられるのですが、
    音楽文化を見る限り、イランとアラブとトルコはもう全然違うなあという印象が出てきます。

    〜〜〜〜〜〜〜

    で、一方、京都と大阪と兵庫は音楽文化が違うという訳ではないのですが、
    住んでいた(あるいは通っていた)身からすると、やっぱり文化が違うなあという思いは強いです。
    『月曜から夜ふかし』で、京都弁と大阪弁と神戸弁(という言い方はあまりしないけれど)と泉州弁と播州弁の
    違いを取り上げた秀逸な映像があったのですが、あ、やっぱり全然違うなと。

    そして、人の性格や文化的な面を考えてみても、
    それぞれに違っているうえに、それがまさにイラン・アラブ・トルコの関係と実に似ているんです。

    たとえば京都では裏表がある文化といいますか、お世辞や「どうぞどうぞ」と言っているけど
    実は本当は来てほしくないみたいな、ややこしい文化があるのですが、
    これと同じものがイランにもあります。「タアローフ(タローフ)」という文化です。
    詳細はググっていただければ大丈夫です。

    あと、古都ならではのプライドみたいなのが京都にはやっぱりあるのですが、
    イランの人にとっても、イスファハンやペルセポリスなど、かつては古都として栄えた都市もあり、
    歴史的な文化遺産も多く、そういったプライドもあるようですね。

    あと京都の人にとって大阪は少し野蛮なイメージがあるようなのですが、
    これと同様にイランの人にとってアラブは粗野なイメージがあるっぽいです。
    イラン人とアラブ人を一緒にされると怒るとか。

    ではアラブの人はどうなんだろう?
    というと、人づてに聞くかぎりでは、だいぶ人懐っこいというか、
    良い意味でいえばフレンドリー、悪く言えばしつこいみたいな、そういうところはあるようです。
    これもちょっと大阪に通じるものがある。
    まあイランやトルコの人も割と話しかけてくるのは話しかけてくるみたいですけれど。

    あとは少なくともエジプト人の場合ですが、ジョークが大好きなようで、
    このあたりも大阪の「会話をするからには笑いをとらなくてはならない」という
    宿命感のようなものとだいぶ似ているものがあります。
    東洋経済オンラインの記事でもそんなようなことが書いてあるのでびっくりです。

    そして兵庫県&トルコに関してですが、
    兵庫県がそもそも北部と南部で意味する内容や生活習慣が異なってくるように、
    トルコも西部と東部で全然違う。
    西部は港町!ヨーロッパに近い!って感じですが、東部は山!人が少ない!という感じです。
    兵庫の南部と北部もそんな関係です。

    兵庫の南部別にヨーロッパに近くないじゃん、といえば確かにそうなのですが、
    神戸などに来ていただいたら分かるように、舶来物や欧米文化に対する憧れ、
    あるいはそれらと取引していることをアピールする傾向が、特に神戸にはあります。
    トルコもEUに入りたいという願いは根強いですから、ヨーロッパに対する憧れはありそうですよね。
    神戸≒イスタンブールと思ってもらってもあながち間違いではない。いや、間違いだけど。

    地理的に考えても、トルコが黒海と地中海の2つの海に面しているのと同じように、
    兵庫県は日本海と瀬戸内海の2つの海に面しています。2つの海に面しているのは兵庫県だけ!
    なので瀬戸内海≒地中海と思ってもらってもあながち間違いではない。(間違いだけど)

    〜〜〜〜〜〜〜

    その他まあいろいろとこじつけようと思えばこじつけられるのですが、
    色んなことを考えていくにつれ、どうも「京都:大阪:兵庫=イラン:アラブ:トルコ」なんじゃないかと思えてならない。
    もちろん、あくまでこじつけです。
    人の性格もいろんな人がいますから、一概に県民性とか国民性ということを言えるわけではない。
    けれども、こう考えると多少スッキリするというか、少し分かりやすいなぁと思います。

    最後にこれが一番びっくりしたんですが、
    世界地図を少しいじってみると、日本列島の形に似ているんですね。
    この「日本列島に似ている」論は聞いたこともある方が多いと思うので、
    そこまでびっくりはしなかったんですが、
    世界地図における「イラン」「アラブ」「トルコ」の位置が、
    日本地図における「京都」「大阪」「兵庫」の位置とほぼ一致しているんですね。

    ※図はこちらのブログより転載

    これには少し運命的なものを感じました。
    あくまで話半分のジョークとして読んでいただければと思いますが、
    関西文化圏と中東文化圏は似たような構造になっているのかもしれません。

    ブダペストに行っても無限にバナナは食べられる

    最近実はドラムの練習をしているんですよ。
    今何が熱いかといえば実はドラムです。

    パーカッションは今までやっていたんですけど、
    ドラムっていうものは全然やってなくて。
    それは2つの理由があって、まず「難しすぎるだろ」という点。4本手足バラバラとか無理そう。
    あともう1つが「音が大きすぎる」という点。
    大学時代にドラムの体験レッスンに行ったんですけど、
    その先生がなんか音がやたら大きい人で、隣で聞いていて「これは耳が痛い、無理だ」って直感したんですね。
    けっこう大きい音は自分苦手なんです。パーカッションやってるけど。

    それ以来全然ドラムはやる気がしなかったんですけれど、
    先日たまたま2つの映画を見まして、
    1つは『セッション』、もう1つは『バードマン』。

    『セッション』はどうも内容に納得がいかなくて、ネット上の批評を見ていたら
    「あれはクソ、でもジャズドラム映画として『バードマン』は最高」みたいな批評があったので、
    なるほどこれは見に行かねばと思い『バードマン』を見たら、音楽が素晴らしくカッコいいの。
    これは内容自体はジャズドラムと全然関係ないけど、音楽が全編ジャズドラムだけで奏でられていて、
    その表現力というかグルーヴとメロディーを全部担当している感じに衝撃を受けてね。

    でなんかドラムってええやん?と思い、まあその他もろもろのご縁があり、
    ちょっとずつスタジオに入ってドラムを練習しています。

    特に先生について習っているわけではなく、
    とりあえず「ドラムって面白いなあ」というところでドラムに触れているという感じ。
    あとまあ、ネット上でドラムの情報はありあまるほど出てくるので、
    特に先生に習わなくてもとりあえず独学(=我流ではない)でもいいかな、という。
    トンバクもネット上でひたすら見て覚えましたし。

    で、そんな感じでドラム情報をいろいろとネットであさっていたところ、
    「実はそもそもスタジオに入って練習するのが一番というわけではない」
    みたいな記事が出てきまして。
    その記事ではむしろイメージトレーニングとか、あるいは手足を動かす順番をやってみる、
    といったことを重んじていたのがけっこう面白かったんですよ。

    実際に自分でスタジオに入ってみても、
    「イメージできる音」っていうのは出せるんだな、というのをなんか感じています。
    もちろん速さ的に無理とか複雑すぎて無理というのはあるんですけれど、
    「こうすればできるな」というイメージがわく音って、出せるな、という、不思議な実感を感じています。

    じゃあなんでも演奏できるかというとそうではなくて、
    演奏できない音はそもそもイメージできないんだなというのが実感です。
    正確に言えば「出音がイメージできない」+「手順がイメージできない」。
    手足をこういう順番で動かすといけるな、というのがわかれば、
    あとはそれをちょっとずつ実行するだけで、速いスピードでできなかったとしても、
    遅いスピードから徐々に上げていけばいずれはできるようになる。
    (それでもたとえばその「速いスピード」自体が驚異的に難しい例はありますが)

    じゃ、今まで自分は例えばパーカッションや作曲で行き詰まっていたのって、なんだろう?
    あるいは仕事で行き詰まっていたのって、なんでだろう?ということを振り返ってみても、
    確かにそこには「イメージ」が無かったなぁというのは思い当たります。

    DTMで曲作りをしていても、イメージが無いと1小節作るだけで疲れてしまい、
    しかもあとはそれを繰り返して微修正するだけといった単調な音楽になってしまいがちなのもよく実感しています。

    するとけっこう、「イメージ」って大して重きを置いていなかったけど、
    実はそれなりに、いや、かなり大事なことなんじゃないか?というのを、
    どういうわけかドラムを通じて学んでいます。

    「イメージ」を描くまでもなくできることというのは存在します。
    それをやっていくだけでも一応は生きていけます。

    あるいは、「イメージ」が描けなかったけどやってみたらなんとかなったぜ、
    というタイプのものも存在します。だから「イメージ」は無くてはならないものではない。

    けど「あると便利」なものではあるかもしれない。
    あるかもしれないというかたぶんそんな気はしています。

    ちなみにこの記事のタイトルはまったく意味がなくて、
    イメージ無しに思いついた言葉を並べてみたものです。
    そもそもブダペスト以外でもバナナは無限に食べられないしね。
    行き当たりばったりとはこういうことです。

    むしろ、生きたいように生きるしかないのでは

    「自分の思いを押し殺して、社会の要求に合わせて生きていく」
    って実は根本的に無理なんじゃないかな?ということを考えています。

    それを考えてみるには、たとえば自分で自分の欲求を把握するのが
    どれだけ難しいかを考えてみればよくて、
    自分のやりたいことというのは非常に不明確であやふやだったりするわけです。
    もちろんそうでない人もいますが。

    その自分を把握するのすら難しいのに、
    まして社会=複数の他人というもっと難しい存在の欲求を把握して、
    しかもそれに合うように生活するというのは、
    もうとんでもなく難しいことなんじゃないか?と思うわけです。

    つまるところ、「社会に合わせて生活する」というのは
    「社会の表面的な欲求に合わせる」あるいは「合わせているつもり」以上のものにはなりえないんじゃないかな?
    本当の意味で社会が求めているものを呈示できるのなら、
    その人は今すぐ優れたマーケッターや起業家になれるんじゃないか?

    「表面的」や「本当の意味で」という言葉が何をさしているのかは
    確かにあいまいです。雰囲気で使っている感じではあります。
    また、たとえば表面的であっても社会の要求に合わせなきゃいけないんだよ、
    という意見もあるかと思いますので、こう言い換えてみます。

    「自分の思いを押し殺して、表面的な社会の要求に合わせて生きていく」
    ということは可能かどうか?

    こう考えると、それは確かにまあ可能だし、そうしている人もいるなあとは思います。
    ただそれに価値があるのかどうか?というのは別です。

    あと、そもそもなんですけど「表面的な社会の欲求に合わせて生きていくこと」自体が
    「自分の欲求」であるという可能性って考えられないですか?

    そんなメタな話をするなよという意見もありますが、
    たとえばある社会的な欲求があったとして、それがまるで独裁者のごとく強制力を伴うものでなければ、
    それに従うか逆らうかは本人に委ねられているわけです。

    もちろんあらゆる場面で人間の自由が保証されているわけではなくて、
    たとえば子どもの時代や、あるいは独裁政治下の時代においては、それに逆らうことが難しいでしょう。
    けどたとえば大人になって企業に就職してそれなりに1人暮らししていますという段階だと、
    もう特にすさまじい強制力っていうのはないんじゃないか。

    じゃ、例えばブラック企業はどうなんだというと、そこに逆らう自由はあるはずです。
    もちろん辞めようとしても辞められないという会社があるようですが、
    (「ブラック企業 辞め方」などで検索すると、その辺の事情が出てきます。)
    ヤクザから足を洗うのとは訳が違うんだし、いざとなればたとえあらゆるものを無視してでも辞める自由はある。
    「残された仲間が心配…」と考える人もいるだろうが、逆にその人が辞めることで、仲間が辞めやすくなるかもしれない。

    自由はある、と思う。

    むしろ、唯一逃れることができないのは、他人ではなく、自分であると思う。
    究極、人は自分のやりたいことから逃れることはできない。

    それは何も高尚なレベルのことを言っているんじゃなく、
    眠たくなればいずれ寝てしまうし、ずっと断食してもいずれは何かを食べてしまうし、
    仮に無理矢理そうさせなかったとしても、その人は睡眠や食事のことを考えずにはいられないだろう、ということだ。

    「やりたいこと」というのは「押し殺す」のがデフォルトではなく、
    「かなえなければならないニーズ」というのがデフォルトです。

    睡眠はとらなければならない。
    食事もとらなければならない。
    ではなぜ、「やりたいこと」は我慢しなければならない(とされている)のか?
    そんなことはないだろうと思う。
    それがOKになっているのは、睡眠や食事に比べれば、「やりたいこと」はやらなくてもまあ死なないからです。

    もちろん「やりたいことをやろうとすること」と
    「それが実際にかなえられるかどうか」は別問題です。
    けど、それでも「やりたいことをやろうとする」ことによってしか、
    むしろ我々は生きられないのではないか?というのが、僕の考えていることです。

    それに逆らうことは多大なエネルギーを要するし、
    それに逆らったところでいずれ反発が来てしまう。

    ピーター・ティールが『ほとんど賛成する人がいないような大切な真実』として
    語っているものって、例えばこういうことかもしれない。